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おじさんと動画世代、おそらく環世界について


おじさん、ジェネレーションギャップを感じる

私はいま34歳だ。
いつのまにかおじさんになったなぁと思うことが増えた。

たとえば職場の20代のSさんとこんな会話があった。

おじさん👨‍🦰「最近、小学一年生の子供が、動画教室で教えてもらって、スマホパパッと動画を作れるようになってたんだ!素材撮影から自分で!すごい時代だよね!」
Sさん👦「動画撮影楽しいですよね!僕もちょくちょく撮って編集するんですけど、ただ友達と歩いているような日常のなんでもないシーンとか、意外といい素材になるんですよね!」

THE動画世代

おじさんは、軽く衝撃を受けた。

おじさんにとって、動画というのは「誕生日のケーキを吹き消す瞬間」だったり、「運動会で走っている姿」だったり、「一生懸命ダンスをしたり」と、なにか記録しておきたい特別なことがあったときに撮るものだと思っていた。

しかし、Sさんにとっては、日常のなんでもない瞬間も動画に残しておく価値があり、普段何気なく過ごしているときにも、「あ、ここのシーンを動画に残してたら良さそう!」というまるで映画監督かのようなひらめく瞬間がある

おじさんは、衝撃を受けた。

Sさんの日常には映画監督的な視点がある

この「衝撃」をなんと呼ぶ?

思いがけない驚きに「ジェネレーションギャップ」という言葉を使ってしまったが、これは認識が粗いなと思った。

おじさんでも動画にどっぷりな人もいるだろうし、若者でもやってない人はやっていないだろう。

では「世代」ではなく「価値観の違い」はどうだろう?

近いような気もするが、私が驚きを感じたのは、価値観の違いだけなく、
私には備わっていない「日常の中に動画のシーンを発見する能力」があるんだと感じたからで、その部分が含まれていない。

「見てる世界が違う」?「感じてる世界が違う」?

世界」が違う、というのはかなり近いかもしれない。

私の世界は、日常のなんでもないシーンに対して「動画にしておくのもアリじゃない?」と囁いてこない。
Sさんの世界は囁いてくる

環世界へようこそ

こんなことを考えていると、「世界」という言葉にはいろんな意味があることに気づく。
太陽がある。空が晴れている。川が流れている。といった普遍的で客観的で、誰にとってもそうであろう「世界」と、
その人の価値観でしかわからない「世界」。

もしかしたらこの「その人の価値観でしかわからない世界」は、
生物学でいうところの環世界(かんせかい/ウムヴェルト)」に含まれるんじゃないかと、ふと思った。

環世界とは?

「環世界」とは生物学の用語で、ドイツのユクスキュルという生物学者が提唱した概念だ。
すべての生物はそれぞれに種特有の知覚世界をもって生きており、それを主体として行動しているという考える

それぞれの環世界

ダニの環世界

マダニというダニの一種がいる。
マダニは草の上などで待ち伏せし、近くを通った動物に取り付いて血を吸う。
大きさは2~3mmしかない。
そんな小さな体でどうやって獲物の気配を感じ、血を吸うのだろうか。

まず、マダニは、目が見えないし、耳も聞こえない。(というか、目も耳もない)

マダニが世界から受け取れる情報は、
・動物が発する酪酸の臭いを嗅ぎ取る嗅覚
・動物の肌のぬくもりを感じる温度感覚
・動物の肌の中でも毛が多い場所なのか少ない場所なのかを判別する触覚
のたった3つしかない。

つまり、マダニの「環世界」は3つの刺激だけで構成されている。

人間の感覚で言ったら、嗅覚と温度と触覚しかない世界にいたら気が狂いそうだが、マダニは気が狂ったりしない。
マダニはそういう環世界に住んでいて、人間はそうではないからだ。

寄生虫のマダニ

トンボの環世界

もうひとつ昆虫の話をさせてほしい。
私は子供の頃、田舎に住んでいて、中学校の廊下によくトンボが入ってきていた。
中学校は完成したばかりで、廊下はワックスでピカピカだった。
そのピカピカの廊下に、トンボが尾っぽをちょんちょんと触れているのを、しょっちゅう見た。
トンボは水に産卵することは知っていたので、ワックスでピカピカの廊下を水面と勘違いしたんだろう、と思っていた。

けど、これってもしかしたら、トンボの環世界では「自分の下にあるピカピカのツルツルのもの」という認識しかなく、どちらが正しい、というのはないのかも知れない。
「勘違いした」という見方は「水面」と「ピカピカの廊下」の違いを認識できる人間の環世界からの見方なんじゃないだろうか。

もしかしたらトンボの環世界では区別がないのかも

盲導犬の環世界

おなじように、犬の環世界も人間とは大きく異なる。

人間は情報の約8割を視覚から得ているのに対し、犬は嗅覚から4割、聴覚から3割を、視覚からは2割だといわれている。
つまり、人間は8割を目に頼っている環世界で生きているが、犬は2割しか目に頼らない環世界で生きている。

また、人間と犬は、色の見え方についても大きく違う。
犬は赤が見えづらく、青と緑の2色の組み合わせで色を知覚していると考えられているそうだ。

盲導犬はどうやって横断歩道渡ってるの???

横断歩道を渡る時、人間は「信号の色」や「車の往来」といった視覚情報に大いに頼って判断する。
人間の環世界で生きているので、それは簡単に理解できる。

しかし、犬は異なる環世界の生き物だ。

「信号が赤だから」、「止まろう」という判断をしているのだろうか?

嗅覚が4割だから「車の排気ガスの臭いが薄かったら渡って良い」とか、
聴覚が3割だから「車のエンジンの音が落ち着いていたら渡って良い」とか、
「横断歩道を渡って良い」かどうかを、犬の環世界での出来事から判断しているんじゃないかと思う

どうやって横断歩道を渡ってるの?

同じ世界に生きてるようで生きてない

「環世界」を提唱したユクスキュルという生物学者の著書「生物から世界はどう見えるか」にはこんな一節がある。

「環世界の研究では、意味の関係こそが唯一の信頼できる道標である。ミツバチにとって意味があるのは花だけであって、つぼみには意味がないのである。」

生物から世界はどう見えるか

つまり、生物は客観的で普遍的な世界に生きているのではなく、
自分と意味の関係のあるものだけで構築した環世界に生きている

そんなはずはないだろう。と思う人には体験してもらった方が早い。
2分弱のこちらの動画をぜひ見て欲しい。

おじさんの環世界、Sさんの環世界

冒頭の、おじさんと動画世代のSさんの話に戻ってみよう。

Sさんは普段から動画に慣れ親しんでいて、自分で動画を編集することもよくある。
私は普段動画を撮ったり、動画を編集したりすることはほぼない。
この行動から「日常の中に動画のシーンを発見する能力」の有無が生まれる。
しかし「環世界」の考え方だと、生物は意味関係を元に主体的に環世界を作り上げているので、「日常の中に動画のシーンを発見する能力」は「動画のシーンがいくつも散りばめられた世界」を自分で作っているとも言える。
どっちの認識が正しいかとかではなく、単純に表現の違いだが、場合によってはそっちの表現の方がしっくりくることもあるんじゃないだろうか。

これまでの人生で「なんか考え方や価値観がすごく違うなぁ」と思う人はたくさんいた。
そんな人に出会ったとき「環世界が違うんだな」と思うことで、新しく発見できることも多いんじゃないだろうか。

参考


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