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最強夢主好きがメアリー・スーを語る

みなさんこんにちは。
入海七水(いりうみしちすい)と申します。

小学生のときに自分で書いた夢小説を思い返しては、「なんで魔法がない世界で魔法を使ってるんだ世界観が台無しじゃないかー!」と憤ったりしている夢女子です。

さて、そんな話は置いておいて、「メアリー・スー」ってご存じでしょうか。
二次創作において、登場させるオリジナルキャラクター(夢小説のような自分代理も含みます)の設定を盛りすぎという意味のスラングです。
由来は「メアリー・スー」という名前のオリジナルキャラクターが大活躍する二次創作小説からです。

いい意味で使われているのは見たことがありません。
イキリ鯖太郎とか、黙れドン太郎みたいな、そういう○○太郎シリーズの語とそう変わらない嘲笑のワードです。

今回はそんなメアリー・スーについて考察してみたいと思います。

なぜメアリー・スーは敬遠されるか
これは、ぱっと思いついただけで3つあります。

・物語として下手だから
・好きなキャラがないがしろにされているように感じるから
・願望が幼稚だから


物語として下手だから


一人のキャラクターにしか見せ場がない作品って、あまり技巧的とは言えないと思います。
もちろん、一人のスーパーヒーローがいろんな事件を解決していくお話というのは存在します。
例えば「名探偵コナン」とかですね。
でもあの作品、確かにコナンくんは天才探偵ですが、彼だけがすべてを解決し、彼だけが称賛を浴びているわけではないじゃないですか。
他のキャラにも見せ場があります。
蘭ねえちゃんはめちゃくちゃ格闘が強かったり、周りにコナンに出来ないことが出来る人物がいます。
メアリー・スーとは、そういうのが一切ないので、読み手は「なんだこいつ」で終わってしまいます。

好きなキャラがないがしろにされているように感じるから


これは上記と近いですが、原作中で「強い」とされているキャラクターも、メアリーの前では赤子同然です。
(原作で最強のキャラを軽くいなせるほど強くなければメアリー・スーとは呼ばれません。)
そして、口々にメアリーのことを褒めたたえる……ともなれば、「私の好きなキャラクターは、メアリーをヨイショするための存在じゃない」って思っても仕方がないです。
いやな気持になって当然だと思います。

願望が幼稚だから


メアリーって設定が盛られすぎなんですよね。
メアリー・スーの語源は海外ですが、日本版メアリー・スーにありがちな特徴を並べますと、
・天才的な頭脳を持っている
・容姿端麗
・けた外れの戦闘能力
・性別を問わず非常にモテる
とかですね。
「夢小説あるある」とか結構ネタにされてます。

これがどう幼いのかといいますと、人の美徳として単純すぎることです。
キャラクターの魅力って、例えばちょっと怒りっぽいなど一見欠点のようなところだったり、ストップウォッチなしでぴったり1分が計れるとかの微妙な特技だったり、派手じゃない部分で表現できるじゃないですか。
それに対してメアリー・スーは、ひたすらわかりやすい。
「これが理想なんだ」と出してくる姿に、あまり人格を感じられないですよね。

「容姿端麗」について掘り下げると、「巨乳」「体重が軽い(30kg代など、明らかに不健康)」などの要素も出てきます。
この中に、「唇が厚くてセクシー」とか、そういうのはありません。
全体的に解像度が低いんですね。

メアリー・スーのようなオリキャラ創作も含めて、夢小説とは、はある種理想の投影です。

でも、創作物がメアリー・スーになってしまうような人たちは、理想の形があまりうまく練れていないんです。
だから、紋切り型に強い、容姿が良い、賢いしかないんです。
自分の特性と照らし合わせて、自分の進化先がどうなるかも読めない。
そんな未発達の状態なんです。

だから、幼稚であるといえます。

話はそれますが、そんなに幼いとしても、「胸が大きいことはいいことだ」「体重が軽いのはいいことだ」と考えてしまうことが多いのは少々危険だと感じています。
「人の良いところ」として、容姿の良さが真っ先に上がったり、こういった身体的特徴が善であると考えてしまう、そういう風に感じさせてしまう世の中ってなんだかなあと思ったりします。

閑話休題。

でも、メアリー・スーって必要なものなんです

でも、メアリー・スーには必要性があると私は思います。
だってメアリー・スー創作をしていくことで、曖昧な理想をもった子供たちは大人になっていきます。
メアリー・スーとは、「世間が善と提示した性質が、本当に善であるか」とか、そういうことを考えて、成長する子供たちに寄り添うものだと思います。

そして大人になったら、「夢女子あるある」なんてネタとして、みんなで過去を共有して、交流することもできる。

さも「メアリー・スーはいつかやめなきゃならない」みたいに書きましたが、大人になっても最強夢主でいいと思います。
主人公が強い作品って痛快で楽しいじゃないですか。
結局考えて、社会と自分の折り合いをつけて、それでも理想像が変わらないなら、それも素敵なことです。
「メアリー・スー」と「主人公が最強」ってのはちょっと違いますけどね。
「主人公が最強」でも面白かったら「メアリー・スー」という蔑称はつきません。
主人公を最強にしたまま、面白さも犠牲にしないのが、大人の技術の見せどころです。

あと、これは極端な例になりますが。
仮に、現実のストレス発散をしたいから、メアリー・スーで既存キャラを踏み台にしたところで、咎める権利はないんですよね。
とある作品が誰かの中で、ストレス発散をする創作のネタとして扱われていたとしても、それをやめさせる法ってないんです。
創作物との付き合い方を強制する権利って、作者ですら持ちえないものですから。

というわけで、私は、「メアリー・スーって読んでて面白くないかもしれないけど、成長のために必要なものだと思えば素敵に思えてこない?」と結論づけて、筆をおこうと思います。

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