「悪い面が見える人」は悪人か?

みなさんこんにちは。
入海七水と申します。

最近、ゲーム配信をはじめてみました。
友達とげらげら笑う姿を垂れ流していただけでしたが、ありがたいことにコメントをくれる人がいました。
その人は、「楽しそうな姿を見て元気をもらいました。ランクを上げられなくて萎えていたけど、やる気が出ました」と。
なにかを楽しむ姿は、人に元気を与えるようです。
様々なものへ、称賛のことばとして、「元気をもらった」という物言いは多用されますから、人に元気を与えるのは、良いことであるはずです。

では、楽しくなさそうな姿を見れば、元気がなくなるのでしょう。
じゃあ、悪いことが目についてしまう人、そして黙っていられない人は、人の元気を奪う、悪いことをする人なのでしょうか?

私には好きな作品があります。
でも、人々がその作品について語るとき、いつも影があるのです。
多重に課金されるバグを放置しているとか、キャラクター間で待遇格差がひどいとか、そんな話ばかり流れてきます。
課金バグについて、私は遭遇しませんでしたが、確かにシナリオライターが一人を贔屓しているような空気は感じられました。
私の友人は、「いつまでもいつまでも私の推しはシナリオが実装されない」と嘆いていました。
「怒り続けるのに疲れちゃった。ちゃんと怒ってるみんなはえらいよ」と、彼女の推しが活躍するであろう章が、ボイスなしでの実装となったときにぼやいていたのを覚えています。

加えて、高校時代のことです。
私にはオタクの友人がいました。
でも、二人ともガチャには依存していました。

一人は「こんなことにお金を使ってはいけない」と思いながら家とコンビニを往復し、家のお金に手を付け、気づいたら10万円を課金していた。
もう一人は、ガチャ期間中に、バイト禁止の高校でこっそりバイトした2万円をつぎ込み、手が震えている中「ここでやめたら無駄になっちゃう、怖い」と私にラインをくれました。

果たして、そんなにもお金に杜撰で、あんなにもファンの気持ちを考えられない作品を応援していいのだろうか。
人を狂わせて、手に入らないという焦燥感でお金を出させる。そして、一定回数ガチャを引けば確定で手に入るとは言っても、その額は2万円を超えていたりして、一冊700円で買える挿絵付きの小説と比べたら、イラストとストーリーに支払うにはあまりに高い額です。
自分が好きなものを得るために課金をしたら、その商法を肯定することになってしまう。本当にそれでいいのだろうか。
疑念は私の中で大きくなっていました。
(友人二人については、「自制心がないからだ」というお言葉も想定していますが、今回問題にしたいのはガチャシステムそのものの依存性です)

結果、私はそのゲームをプレイするのを差し控えていました。
うっかり好きになってしまった彼に会いたい。
彼の声を聴きたい。
彼がどんなふうに人とかかわるのかもっと知りたいという渇望を抑えながら、虚脱したように過ごしていました。
なんとなく私のうちにあった炎がなくなり、日々の生活も、よくできたゲームをプレイしているだけのような感覚になっている中、久々に会った親戚がいました。
彼女はこの作品を何のためらいもなくプレイして、応援していました。
雑談の一環として作品の話をして、流れで久々にゲームを起動しました。
私はオタクとしての信念より、一旦は目の前の人に合わせることを選んだのです。
そうしたら、なんと心の安らぐことか。
こんなにも心に潤いを感じられたのは、いつぶりだったか。
私は彼女の存在を言い訳に、自分の倫理観にふたをしたのです。結果として、生きがいを取り戻しました。

そんな出来事ののち、私はその親戚の家に遊びに行きました。
そして雑談のさなか、率直な心情を打ち明けてみました。
「いろいろと問題が多すぎて、応援していいのかわからない」と。
すると親戚は私を励ましてくれました。
「キャラクター間の格差があるのは仕方ないよ、ストーリーだから」
「確かに私の推しはメインストーリーの実装が遅れてるけど、その分カードエピソードでよく出てきたから」
(親戚の推しと、怒りつづけるのに疲れたと言っている友人の推しは同じキャラです)

「課金バグを放置してるし……」
「私はシステム関連の仕事してるからわかるんだけど、あれは放置っていうか全力を尽くしてるんだと思うよ」

「ガチャというシステム自体ひどくない? 作品の(内容の)ターゲット層は高校生とかからだと思うけど、あれは搾取のシステムじゃないの?」
「ターゲット層は社会人だよ。ガチャは大人に任せておけばいいの。
それであんまり課金できない勢は、課金した私たちの全凸自慢を称えて、私たちに気持ちよくお金を出させておけばいいし、手に入らなかったらYoutubeとかで見たらいいんだよ」
「でも、Youtubeで見るのって悪いことでしょ?」
「でも全部のガチャ引くなんてできないでしょ? 私もやってるよ」

なんとなく、気分が晴れやかになったような気がしました。
私は、「今はお金がないから」と、Youtubeでカードエピソードを見るようなことも自分に許せないでいました。
いつかお金を出せるようになったときには盛大にお金を出す、そんな免罪符があったとしても、「Youtubeで見るなんてズルはしてはいけない」とずっと思っていましたから。

「ありがとう、なんか気分が軽くなった気がする。暗くなっちゃうことが多いから、そうやっていい面を見られるのは人として尊敬する」と、その時の率直な気持ちを伝えました。
すると彼女は、
「悪いことを言うよりも、楽しいことを言っていこうと思ってるよ。そっちのほうがみんなに益があると思うし」
そしてこう重ねたのです。
「みんながやめちゃっても、自分は運営に頑張ってほしいから、応援の意味を込めて課金しているよ」と。

私は心底、その親戚を尊敬しました。
私は悪いところが見えてしまう。けど、その分いいところを見て発信してくれる人もいるのだ、と。
ゲーム配信の時もそうだ。楽しいことを発信するのはいいことだ。
私はこれからも、好きなものを好きでいていいのだ。
好きなものを応援することそれ自体が、悪いことを肯定する意味なんて持たないのだから。

帰路について、はたと思い出しました。
そういえばその親戚は、数年前に会ったとき、有料のペイントソフトを「友達にコピーしてもらった」と言っていたっけ。
もっと前に、親伝いで「月額制のMMOをプレイしていたけど、月額が高いからと無料のサーバー(エミュレーターサーバー)でプレイしている」とも聞いたっけ。

正しいってなんなんでしょうね?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?