二度の退出
めずらしく混み合っているので、左腕を吊り革に預ける。ぼおっと車窓を眺める。民家が流れていく。車も流れていく。夏の空が流れていく。青々とした緑も流れていく。多摩川が流れていく。午後が流れていく。
そこにひとつ、映りっぱなしのこの顔はいったい誰だろう。じぃっとした目と目、それらは光を持つのに不服そう。へんなかお。さらに見るとすこし猫背なのだな。服はかわいいのに。そしてこの人、吊り革を掴む指のささくれが禿げている。一体どうして禿げたままにしているのだろう。
つまりささくれを労われないほど、悩みは深刻であるというのか。不服そうな目であるし。それとも、悩んでいる自分に酔っているのか、逃げているのか。猫背はほどよく逃避態勢にもみえる。困ったひとだな。まぁなににせよ、人にはいろいろな事情があるもの。
吉祥寺駅へやってきた。あいかわらず、降りるひと、乗るひとが多い駅。
ふとポップコーンが食べたくなり、吉祥寺の映画館へ向かう。この映画館のキャラメルポップコーンは、カリカリとふわふわと甘味と塩味の割合がよく、お気に入り。
キャラメルポップコーンのおかずにする映画を選ぶ。なるたけ昔の作品がいい。スクリーンは眺めているだけでもいいのだから。寝てもいいし、手を繋いでもいい。メモをとったり、怒ったりしてみてもいい。映画舘とはそういうところだ。
時刻は14:23なので、いちばん近い14:50上映の作品まで待つ。
並べられた待合椅子に腰かける。待合椅子は左の奥が好き。リーフレットの一覧を眺められるから。関心のありそうなものをちらちらと探していく。これだ、と思ったものを3枚も取ってみて「そんなに貰ったところで見るのは一枚でしょっ」とツッコむ恋人は、横にいない。だから今のわたし、はなっから1枚だけ取る。
時刻がやってくるので、キャラメルポップコーンをついに買う。待っていました。Sサイズを頼むのは初めてだ。受け取って、香りを嗅ぐ。うん、正にこれだった。ツヤツヤして甘い香りは、鼻から心を駆けめぐって、喜ばしい。目を閉じさせて、うっとりさせ、幸せだったあのころや、わたしがいちばん綺麗だったころを思い出させる、香りだ。
観ることになったアニメ映画は、核戦争の話であり、スターリンだとかシェルターの作り方だとかヒロシマがどうだとかで、ただただ辛く、画面の暗い心地のものであったので、ポップコーンを食べ終わって、20分ほどで外へ出た。ポップコーンはいつも通り美味しかったが、映画が暗すぎて、どうしてみんなあれを見ていられるのだろうかと不思議でならなかった。
せっかくの井の頭線なので下北沢へ。特に用事はない。
改札の前でお笑いライブに誘われた。見たところ、私と年がそんなに変わらないハキハキとハキついているお兄さんに、ぜひ見てみたい、笑いたいと伝えた。笑うことは大切だと思うから、と。
そうすると、なんだか病んでいます?と逆に笑われてしまうので、これもある意味お笑いなのかしら。怖いお笑い。
お兄さん親切をきかせて、その会場まで案内してくれた。お笑いといえば、昔、渋谷の無限大ホールにお邪魔したことがあって、その時はまだ駆け出し中のひょっこりはんを一回の遠目から見ていた。
そんな風な会場を想像していたら、スーパーの入ったビルの3階の、さらに隅の小上がりスロープを登り、右に曲がったところに出てくる、小さな部屋で、パイプ椅子が乱雑と並べられている。
待機する客はどれも一人客で、私のようにきっと、笑いたい人たちなのだろう。
笑うために、この場で1人きり、待機するというのは面白い。ファンの芸人を待機することとは異なる。例えばオードリーだとか、くりぃむしちゅーだとか、もうすでにどんな笑いの類いかを知って待っているのとは違う。(あとは好みの顔であるかどうか)。はじめましての駆け出しの芸人に、どんな類いかまだわからない笑いを求めて、私は今パイプ椅子に座っている。
アンケートを記入しているところで、気づいてしまった。私は一番後ろに座っていたのだが、右の前の方から、じわじわ、つんつん、きゅーと、臭い匂いがする。臭い。こんなの嗅いできたら、一晩でアルカリ性が消えるであろう。
またもや外へ出た。映画に続いて2回目だ。
電車に乗る。
車窓に貼られた広告のおんなは、微笑みながらこちらを向いている。予備校の広告の女もこちらをみている。目を向けられると見るしかないではないか。別にみたくもないひとと目を合わせる感覚。
そうしていると、夏の18時を過ぎたころの空は綺麗だ。水色の広がる、すがすがしいキャンバスに、赤い雲がくっきり二つ、ぽつぽつとならんで浮いている。太陽の光線が雲まで届き、その雲を電車に揺られるわたしの目に届く。
あんなに暑い昼間から、心地の良い夜へ架け橋をしてくれる、貴重な時間。夏は夜、ということは確か。でも、私はやっぱり、18時すぎが好き。
空を眺めていると、勢いよくトンネルに入って、スクリーンは真っ暗に変わった。
電車に映っているこの顔は、一体全体誰なのだろう。
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