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開運力で転職を成功に導けるのか!#42

この物語は「失敗を繰り返した後に成功を価値とる」と言ったいわゆる成功物語ではありません。いろいろな人間関係に出会って翻弄された結果、自己が成長していく過程を書いたノンフィクションです。母の死を経て16回の転職後に起業し25年間、経営者として生きて還暦を迎え開運アドバイサーとして生きて行く道を選んだ物語となっています。苦しい時、何かの判断に役立つことを願っております。興味のある方は是非最後までお付き合いをお願いしたいと思っております。

第四章 起業するのは大変

<母の遺骨>

社長との信頼関係を失ったことで進みゆく道を失った気になっていました。もうこの会社にはいられない、まるで離婚を決意したような気分とでもいうのでしょう。それと同時にいつか起業をしたいと思い始めていました。

しかし、お金もなければ人脈もない人間がおいそれと起業できるわけありません。そんなことは薄々感じていました。これからどうすんだ~なんて思っていた矢先にある女性に相談をします。

その頃、かなりお金持ちな年配の常連さんがいて来店するたびに高価な毛皮を購入して頂いていました。その女性がいつものように2階のテーブルで世間話しをしていました。つい甘えて私が独立したい趣旨を彼女に話してみました。

すると、かるい感じで「私が援助してあげる」と言い出してくれました。あまりにも簡単なかんじだったので、物凄いお金持ちなんだと勝手に解釈もしてしまったのです。確かに彼女は千葉県の鎌ヶ谷市かなりの土地を所有していてそこにアパートや戸建てを立てて家賃収入をしていたらしいのです。きっと彼女も何かやってみたかったのでしょう、「一緒に高級品を売りましょう」なんてかなりその気になっているようでした。

それからはショッピングで当店に来るのではなくパートナーとして来店するようになりました。私は怒らせてはいけないとかなり気を使って相手をしていました。それとは別に内心は構想をはなしはしたもの、全く自信がなかったのです。

そこで思いついたのはある男の存在でした。当時軽い装備で長く潜る事が可能な製品のダイビングギアのオーバを習っていてそのインストラクターが中谷君と言って彼に「起業したくない」か聞いてみた。すると彼もお店を持ちたいというので一緒にやならないかと誘いました。

彼となら上手くいくのではないかと思った。それは、彼の担当するお客さまが二子玉川あたりに住むセレブな人達だったからです。だからその顧客を使えると思い計画を練って行ったのです。

私は休みがなく店舗に居なければならないので彼に動いてもらうようになりました。たとえば店舗探しとかです。彼はそうならばインストの仕事を休んで私の手となり足となるのでバイト料が欲しいと言うのです。ちょっとずうずうしいと感じましたが私も店を開けられないので月10万円ということで話がまとまりました。

ここまでは良かったのですが、その話を資金を出してくれると言う高齢の常連客に中谷君を紹介すると彼女が良い顔をしません、私は彼の人脈を使えば売上が確保できると説明したのですが彼女は納得はしませんでした。

それと彼に前金として5カ月分50万円を渡しました。見栄をはり太っ腹に見せたかったのですが、それを逆手に取られた感じで2か月目から連絡がとれなくなってしまったのです。つまりトンずらです。

同時、その話を彼女に話すと「あの人は信用が置けない顔をしてた」などと言うのです。年の功でしょうか・・と思いました。そして資金の話も中に浮いてしまうのです。急に銀行が貸さないというのでご破算にしろというんです。

そして銀行を納得できるように説明して出来るなら貸すと話が変わってしまったのです。たぶん、はじめから、彼女のお遊びで貸す気がなかった事を知るのです。

まあ、信じる私も大馬鹿でしたが・・・案の定、中谷くんから連絡は途絶えたままだった。汗水たらして稼いだ50万もパーになり、自分の脇の甘さを痛感しました。そして大切なお金が無くなったことで自己嫌悪に落ちました。当然、ショックで1ッ月位はやる気は出てきません。

丁度その頃です。この会社を辞める5日前の6月5日に私の運命を変えることになる1枚のFAXが店に届くのです。

この日は母の命日でもあったので、わすれようにもありません。このFAXはフィレンツエのロマーノFAXだたのです。1年前に一度だけ男性用のニットを注文しにフィレンツエ行ったときに会った年配の男性でした。あったと言っても数時間だし、ろくに会話もした記憶はなかったので印象はあまり残っていかったでした。

FAXの内容は事務所の移転の知らせだったのです。この時はロマーノが将来私にとってかけがえのない人になって行くなんて全く考えても見なかった。そしてこの頃妙なことがありました。

急に春の彼岸が近づくと、今まで忘れていた39歳で亡くなった母を急に思い出したのです。それまで私の家には墓がなかったのでした。では母は遺骨はどこにあった言えば富士の大石寺に遺骨を預けていたようです。

亡くなってからの年数を数えてみるとなんと23回忌だたのです。私はこれはどうにかしなければならいと思い、すぐさま大石寺に連絡をとりました。するとお骨の番号を教えろいわれました。当然、番号な判らないわけで、名前だけ言うと、普通は絶対に見つからいはずの遺骨が納骨室の手前にあったらしのです。母がここよ!「私をみつけろ」なんて言うのかわかりませんが本当に入り口近くにあったそうです。

話を事務員さんに聞くとこれってまれなそうです。見つからないことも多いそうです。私は何かこころのつかえがとれたような清々しい気持ちになっていました。そしてすぐに遺骨を入れる霊園めぐりに行き見つけ命日合わせて納骨したのです。

そしてあのイタリアからのFAXです。起業に向けて導かれていくのですがすべての事がこの母の遺骨を埋葬してから始まるのです。すべて母が導いてくれてことと思っています。

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