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開運力で転職を成功に導けるのか#36

この物語は「失敗を繰り返した後に成功を価値とる」と言ったいわゆる成功物語ではありません。いろいろな人間関係に出会って翻弄された結果、自己が成長していく過程を書いたノンフィクションです。母の死を経て16回の転職後に起業し25年間、経営者として生きて還暦を迎え開運アドバイサーとして生きて行く道を選んだ物語となっています。苦しい時、何かの判断に役立つことを願っております。興味のある方は是非最後までお付き合いをお願いしたいと思っております。

第三章 何が何でも海外
<テネシー発、着物ショー>

社長一行と私はレストランに向かった。先ず、社長は私をナンシーとリチャードに紹介し、アメリカでの生活手続きをリチャードにサポートしてくれるようしてくれた。夫婦共々社長に恩を感じているかのように忠実な感じでしたので私に対しても肩書きが甥なのでとても好意的に見てくれるのが判りました。

しかし次に紹介してくれた和食の責任者の佐々木と寿司職人の尾崎はぶっきら棒で挨拶だけで目も合わせない状態でした。店舗にはゼネラルマネージャーが必要で赴任した時はその代行をナンシーが受け持っていたのですが年齢も60才前後で無理があり、あまりできないということでGMを募集しており、面接を何人かして採用する人が決まり2週間後に出社することを社長に伝えていた

。和食の厨房を見ると4人の黒人が働いており、ウェイトレスももろアメリカ人と判かる色白で目がブルーの美人系の人やアジア系の人達が目に入りました。不動産の責任者の桜井さんがとりあえずレストランの責任者と兼任して彼が流暢な英語を話すので彼が私をその他の外国人に紹介してくれたのです。

彼は私がここに赴任したので1週間後には日本に戻ることになっていてそれまでに私の企画を手伝ってくれることになりました。本来は私一人の赴任でしたが、私は社長にある売上UPの為の企画を提案していました。その企画を桜井さんがナッシュビルのTV局に提案、それが現実になったのです。

その企画とはレストランで「きものショー」を開催することでした。この三年GMも何人も変わり、売り上げは伸びず、常に赤字で東京本社からの送金でマナナス分を補てんして存続していたのです。それを聞いていたのでこの企画で少しでも知名度を上げれば売り上げに繋がると考えたのです。


これからナッシュビルで生活するのに拠点が必要になります、当初はレストランの3Fに住み込みが出来る部屋がありそこで暮らすという話でしたが、どうにもこうにもプライベートではないのでアパートを探すことにしました。そこでリチャードにお世話になったのです。リチャードは全く日本語をしゃべりませんし英語がテネシー訛りでしかも私は英語下手ときています。

意志の疎通はなかなか出来ませんでしたが無口な割にテキパキとアパートの契約も銀行口座を開くこともその他のアメリカ生活をする必要な手続きをすべてやってくれたのです。

私が決めたアパートはヒッコリーパークという、レストランから高速通路を走って車で20-30分位かかりました。日本のような列車もないのでアメリカでは車が必ず必要で、私も赴任初日から店の車を宛がわれました。交通事情は日本と逆です、それも左ハンドルですから、慣れるまでびくびくして運転していました。

特に高速道路に入る時です、かなりのトラックがスピードをつけて走っていて日本のようには譲ってくれないのです。それで何回か接触しそうになったことがありました。まあ幸い事故はなかったのですが。

私のアパートは二階建ての木造でコテージぽい感じでした。家賃は日本円で5万円位で60平米の1LDK、冷蔵庫、食器乾燥機、食器棚、TVなど直ぐに住める状態のアパートで別棟にアスレチックジム、スイミングプールもあり、とても優雅な気分になれました。電話は個別に契約をしなければならかったがこれもリチャードがやってくれて不自由なことは当初はなかったのです。
数日後、ブッツケ本番のライブ中継でテネシー初の着物ショーが始まりました。日本からすでに人数分の着物が到着しておりました。誰に着させるかを事前に桜井さんにお願いしていました。

モデルはレストランの常連客のアメリカ人の女性でその方々に着物を着させファッションショーをするのです。

着付けは私がやることになっていたのですが、問題は帯結びでした。モデルは5人なので5種類の帯結びをしなければならないのです。しかし私は2種類の結び方知らず不安に思っていたのです。御太鼓結びと文庫結びしかできないので、あとは本を見ながら悪戦苦闘しながら見よう見まねで作りました。

モデルの女性は時間がかかっても初めての着物に興奮しているのかニコニコしていてくれて文句ひとつ言わずに待って頂いたので助かりました。そしてレストランで本番が始まりました。レストランは二階がありそこから階段を下りてくる段取りになってました。

青い目で金髪のアメリカ人が着物を着ているのはやはり私は違和感を感じていましたが周りの男性たちは大変興奮して「ピューピュー」と口笛で喜んでいます。TV局の司会者も興奮気味に何か言っていましたが聞き取れません。

そして1人1人の着物の種類と帯の名を袴、紋付姿の私が日本語で説明をし同じ装いで桜井さんが通訳しました。そして最後に社長達が出演して終了となりました。CM効果はすぐにでました。翌日はTVを見た人達が押し寄せたのです。ちょっとは予想は付きましたが予想以上に混雑して最近で一番の売上となり、自分的には「上出来の出だしだ!」なんて勝手に思っていましたしどうにか立て直せるのではないかと安易に考えていたのです。     しかし社長達が帰国してからは山積みの問題が発覚し始めました。


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