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開運力で転職を成功に導けるのか!#43

この物語は「失敗を繰り返した後に成功を価値とる」と言ったいわゆる成功物語ではありません。いろいろな人間関係に出会って翻弄された結果、自己が成長していく過程を書いたノンフィクションです。母の死を経て16回の転職後に起業し25年間、経営者として生きて還暦を迎え開運アドバイサーとして生きて行く道を選んだ物語となっています。苦しい時、何かの判断に役立つことを願っております。興味のある方は是非最後までお付き合いをお願いしたいと思っております。

第四章 起業するのは大変

<パリと寝袋>

脇が甘かった考えで大損したり、起業する計画がご破算になってお先真っ暗な状態でした。その上、会社では社長と険悪な状態が依然続いていましたのでもうただ辞めるしかないのかなと思っていました。

しかし、運が向こうから転がんでくる時ってあるものですね。ヘッドハンティングをされたのです。当社の仕入れ先の会社からのオファーでした。この会社はブランドバッグを並行輸入をしている会社で納品の時に同年代の社長でしたので気軽に今後の事、辞めたい趣旨を喋っていました。たぶん当店の売上が良かったのでそこに興味があったのだと思います。

そし私が辞めたいと言ったことであるプランを考えたようです。当時ルイヴィトンは相当に売れていたが当店にとっても卸業者にとっても薄利な商材でした。定価が高かったので売上は上がるが粗利はないと言った商品なのです。しかし店頭に飾ってあれば見に来るお客様が大勢いましたので客寄せ的な存在でした。

ヨーロッパ商事は利益が取れる小売店をしたかったんです。ですから私がここを辞めると洩らしたら同じような店を作りたいので手を貸せと言うのです。私は内心、胸をなでおろしました。また次の職もなく辞めるしか道は無かったのに、私を責任者として働いてほしいと言うことですから冷静な顔つきで対処しましたが心の中では願ったり叶ったりの「勝者」の感覚を覚えました。

早速、そう決まったならと数日後に私は無表情の社長に辞表を渡して辞めることになりました。その時に私と同じように社長からいじめられている営業員がいました。社長がクビにできないのか、一か月前から人事異動で店舗に配属され私の下で雑用をしていたのは田中という妙に落ち着きか無くいつも何かに脅えているような男でした。この行動は1年後さま変わりするのですがこうした行動は理由があったのです。

彼は社長の前では蛇に睨まれたカエルでしたが私の前ではとても明るく従順な部分もありましたので私が辞めたらこの男も直ぐにクビになるなと思い、何かかわいそうな気がして先方の伊藤社長に頼みました。

本人の田中に聞くと彼も救い手を待ちわびてかのように「お願いします」と言ってきた。そんなこともあって1か月ほど後に少し遅れて退社することになりました。彼はヨーロッパ商事で卸の営業をすることになりました。

私が辞めたのは7月で、なんといっても商品が一番売れる時期は秋ですから、このお店を開く予定で進んで行きました。先ず店舗の場所です。当時はバブルがはじけて不景気になりかけていた時期でしたが店舗の空きもまだなく保証金もべら棒に高かったのです。

そしてやっと見つけたのが代官山でした。でも代官山と言うよりはむしろ渋谷はずれでプロパティウエストと名の大きなビルディングの2階に12坪のスケルトン状態の場所を社長が見つけてきたのです。家賃も1坪7万で保証金も1500万円でした。今と違って本当に何もかも高かった時代でした。

それにスケルトンですから内装に800万円もかかりました。特に業者が力を入れて説明してくれてのは床がヒルトンホテルの大霊石を使っているので豪勢な仕上がりにみえました。

店名はプラスドリッシュとしました。私は前回に起業を計画した時に誘った女性がいました。その時、彼女は小田急デパートのブランドショップで働いていていたのですが、彼女も辞めたい時期だったのでしょう、起業の話をして誘ったら直ぐに辞めてしまいました。しかしその上話もおじゃんになってしまい責任をかなり感じていました。なので申し訳ないと感じていたので、彼女をもう一度誘ってみました。

彼女は快く承諾し代官山の店に働いてくれることになったのです。店舗は8月から借りていますので家賃は発生します。だから早くお店をオープンしたかったのですが内装が全く進みません。10月のオープン予定が遅れて師走の忙しい時期にずれ込んでのオープンすることになったのです。

その間、私はヨーロッパ商事の仕入れのサポートと店舗の商品の仕入れの為に動いていました。先ず、シンガポールのルイヴィトンの直営店に行き200万円分のバッグを買い、帰国に行きました。当時、ルイヴィトンの商品は直営て買えば、現地価格と日本の価格かなり差があったので商売は成り立っていたのですが、数年後に差があまりなくなるので儲けの旨みは無くなります。

しかしこの頃は全盛時で商品があれば右から横に売れる時代でしたのでこんな会社が世間には多かったように思えます。店舗の仕入れとルイヴィトンの仕入れでパリに向かいました。すでにパリには荻野というルイヴィトン買付人とでもいうのでしょうか、パリに駐在して彼から集められた消費品をヨーロッパ商事に送らせていました。彼の仕事はフランス国内のルイヴィトンショップを定期的に回り買付していました。

私も会社の要請で1ッ月ほど彼と同行しサポートをするように言われました。彼の事務所はマドレーヌ寺院の裏のレジデンスにありました。古い大理石の床できたお城のような建物で入り口から入ると吹き抜けになっており、まさに中世にタイムスリップしたようでした。

パリに行く前に社長に持ち物を聞くと「とにかく、寝袋が必要」と言われました。私は地方のショップに行き、その為に野宿するのかと勝手に想像していました。しかし、この寝袋はこの事務所で使うための物でした。部屋は1DKで50平米位はありましたリビングには段ボールが敷き詰められ下の赤茶の絨毯らしきものが隙間から見えました。

そこへ土足で入ると「待って、靴を脱いで!」と荻野さんに直ぐいわれました。つまりこのダンボールは日本の畳の役目をしていたのです。ベッドも無く無造作にルイヴィトンバッグが積みあがっていた。憧れのパリ、芸術のパリのイメージで来た私はそのギャップにテンションは下がり気味になったのは間違いありません。

私と一緒に田中もついてきました。彼は初の海外出張でとてもウキウキな気分だったように思えました。彼は違和感もなく楽しんでいるようでした。彼の仕事は私と同じヴィトンのサポートともう一つの使命を受けてきました。これまではバッグ・小物の卸業務だったヨーロッパ商事は衣料にも手を広げることにしたのです。これから1か月、彼と荻野さんと私の珍道中のようなパリの生活が始まりました。

私は以前にバックパックでヨーロッパを旅行した経験がここで物言うことになるのです。つまり異国の免疫が出来ていたのですが田中にとっては初めて海外で頓珍漢なことばかりするのです。


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