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開運力で転職を成功に導けるのか?#27

「この物語は「失敗を繰り返した後に成功を価値とる」と言ったいわゆる成功物語ではありません。いろいろな人間関係に出会って翻弄された結果、自己が成長していく過程を書いたノンフィクションです。母の死を経て16回の転職後に起業し25年間、経営者として生きて還暦を迎え開運アドバイサーとして生きて行く道を選んだ物語となっています。苦しい時、何かの判断に役立つことを願っております。興味のある方は是非最後までお付き合いをお願いしたいと思っております。               <み~さん>

<何が何でも海外>

私は当時、高卒コンプレックスがありました。             ちょっといいなと思う会社の資格条件を見ると大卒以上と書かれていました。その時点で振り落とされていたのです。

現在はITなどの職種を選べば個人の能力次第で学歴の差は感じないかもしれませんが当時まだインターネット、携帯もない時代はやはり高卒では面接さえも受けれない状況でした。専門学校を卒業すると短大卒同等になりますからそのコンプレックスを打ち消すために専門学校に通いはじめたのでしょう。

22歳と言えば普通、大学を卒業してどこかの会社に入り新社員として働く時期ですから私が選んだ旅行学科ではきっと一番年上だろうとな?  とかちょっと恥ずかしいなんて自尊心が高い私は思っていました。そんな思いが吹き飛んでしまいます。同じような人が結構どのクラスもいるんです。

私のクラスはバラバラではなく何故か3人同い年でしたから、学校側も配慮したのかもしれません。私は学生生活に入りました。当たり前ですが定期に学割が使えたのが結構嬉しかったのを覚えています。私は3人の一人がダンス部に興味があると言うことで付き添って行きました。同じように見学をしに来ていたのは18歳から20歳の男3人と女4人でした。私は社交ダンスは見るのも初めてでしたし興味は全くありませんでした。

そのダンス部員は4人しかおらず是が非でも見学者を全員入を入させたかったのでしょう、ぐいぐい押して来ました。初めから興味があり、福岡の実家がお寺で遊び人だった市畑が入部するといい、もう一人付き添いの武田も入部を決めたのでノリで私も入部してしまいました。ここからバイトとダンスと勉強の二年間が始まりした。

私は生活費を稼がないといけないので部活ばかりできないのですが、意外に踊ってみると楽しいので週二回の練習には出ていました。結果、卒業時にあるデモにジルバで踊ることになりました。ジルバはジャンプスーツを着て踊るのですが太っていてそのスーツがピチピチでお腹ポッコリ出てしまう、なんとも滑稽な感じでしたが、良い経験になったこと間違いありません。

その頃のバイトは夜中に都内、近郊にある東急バスの操作場に行ってバスの中にある広告を取り換える仕事でした。11時から4時頃までの仕事でしたから比較的時給はよかったので選んだことは間違いはないのですが、授業中に睡魔が襲ってくるので勉強に身が入りません。

2か月ほどで新橋の「さかなや」というカウンターだけの店でキッチン補助の仕事を見つけ働きだします。この仕事はかつての「浜名」と同じようですが、料理は簡単なものしか出していないので、今回は出しゃばらずに大人しく、マスターの言われるまま仕事をしたので可愛がれていました。

卒業まで働くとはできたのですが、年が明けて就職の事が気になっていました。私は旅行会社に入社してツアーコンダクターになると決めていましたのですが24歳で年をくっているのですんなり入社はできないと感じていました。そこで考えたのが旅行会社のバイトから昇格して入社する事でした。

実際にそうやって入社した先輩方の話を聞いていたからでした。私は新橋の「さかなや」を後ろ髪を引かれる思いで辞めて、当時日本信販の子会社のジェットエアーサービスに入り窓口業務をすることになりました。バイトでしたがやることは社員とほぼ同じでした。

専門にやっていたのは飛行機の手配し発券する業務で、好きな仕事でしたので一生懸命やりましたし、来店客の扱いも上手かったらしいのです。当時はまだ東亜航空があり大手三社の航空券を手書きで作って、出来上がった航空券を発注した会社の総務に届ける仕事が主な仕事でした。

無難なくこなしていて評判も良かった上に本社の部長取締役に大層すかれました。この部長は結構ワンマンで癖の強いが男気がある人のようでした。頻繁に飲みや連れて行かれてり、ご自宅に泊まらせていただきました。コネって大事だなとつくづく思いました。

その結果9月中には内定が決まりました。10月1日にジェットエアーサービスの飯田橋本店で採用された6人と私もそこに出席し、社員紹介されました。やっと夢が叶ったと思った時期でした。私は行く末はアメリカ、ヨーロッパ、アフリカにツアーコンダクターとして活躍する妄想を抱いていました。

まあやっとちゃんとした会社に入れる、当時は人気の旅行業界、狭き門を突破できたのでそれは嬉しかったでした。採用された6人は当然大卒で国際基督教大学、獨協大学、明治大学とかそうそうとした大学を卒業した人達でした。私は専門学校卒、コネ以外の何でもないと感じていました。

しかし、「なんて運が悪いでしょうか?」「何か私がしたのでしょうか?」という晴天霹靂な事が起こります。

忘れもしません10月5日、内定取り消しが通達されるのです。私はいつものように発券業務をしていました。すると店長が私に声をかけました。  その顔は人が亡くなってなんて言ったらいいか分からない時の表情でした。申し訳ない、悲しそうな顔をして言います。

「悪い、ごめん、内定取り消しになった」私は店長の悲痛さでもしかしたと一瞬で察しはつきました。

「何でですか?」

「いや、決まった事だから、俺もここから去るんだ」

「え~店長も」これは相当大きな事件があったのには違いないと感じました。そのあと社員が私に教えてくれます。

なんとテレビ沙汰になるような事件が起こっていたのです。       部長が不倫をしていてその相手がなんと自殺未遂をしてしまい発覚する事件でした。当然、本社はその部長系列の社員を切ります。私もそのコネで内定したわけでご破算になるのです。

私はあわてました。10月と言えば内定が決まり、募集などしていない時期でしたからです。思った通り、募集している旅行会社はもうありませんでした。すでに遅しって感じでした。焦っている自分、途方に暮れる自分がいましたが、就職を決めなければと思い就職情報の新卒募集を身を粉にしてではなく目を粉にして探しました。

何とか1社見つけました。そこに連絡して面接、筆記試験を受け採用されました。この会社は「和光」と言って着物・毛皮・宝石を販売する会社でした。まったく私が求めているのとは違う関係ない業種でしたが、その中で観光部がありそこで良いと思ったのです。

仕事はツアー先で展示会をする手配をしていましたのでテッキリその部門だと思っていましたが、思惑は外れ、営業部に人員が不足なのでとりあえずそこで働いていて後に観光部に回すといわれたのです。でもウソでした。一年立っても移動の話は出ませんでした。

私は横浜の港南支店に配属されました。そこに入社したことによってまた人生は変わり始めます。ツアーコンダクターの道、海外の道は絶たれることになってしまったかに思えた頃でした。

つづく

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