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開運力で転職を成功に導けるのか!#45

この物語は「失敗を繰り返した後に成功を価値とる」と言ったいわゆる成功物語ではありません。いろいろな人間関係に出会って翻弄された結果、自己が成長していく過程を書いたノンフィクションです。母の死を経て16回の転職後に起業し25年間、経営者として生きて還暦を迎え開運アドバイサーとして生きて行く道を選んだ物語となっています。苦しい時、何かの判断に役立つことを願っております。興味のある方は是非最後までお付き合いをお願いしたいと思っております。

第四章 起業するのは大変

<井の中の蛙で失敗>


今回の目的は、秋の予定が内装の遅れで12月にオープンする並木橋近くのプロパティウェストビルの2階、店名は「プラス・ド・リッシュ」の仕入れの為、パリに来てるわけです。

しかし、実は以前の会社で取引があったフィレンツエのロマーノと会う予定はなかったのだ。当初、社長がパリの荻野に頼めば服の仕入れ出来るなど言われてすっかり安心していたのだ。でもそうなったきっかけが日本で問題が起きたからだ。

パリに行く前にハイブランドの輸入卸をしている会社に問い合わせをした。今ではマックスマーラと言えば老舗のブランドになるのでしょうが当時は直営店もなく、商社がいちブランドとして扱っていただけでした。今ほどではないが巷では人気上昇中のブランドになりつつ状態でした。

そのブランドを新店舗に置きたいと私は考えたのです。並行輸入しか経験していない私はアパレルのノウハウなど全く勉強もしておらず、買いたいと言えば売ってくれると単純におもっていたのです。

実際に連絡を取ってみると先ず、店舗の場所を聞かれ、「渋谷区」と答えと「その地域は東急デパートがあるのでだめだ」とけんもほろほろでした。その後に「おたく1000万円以上やれるの?」とそういう態度なんです。

この横柄な態度にはむかつきました、銀行に融資を頼みに行くとそんな態度を取られるの同じです。私は自分でみつけるしかないと思ったのです。その後別なブランドの担当者から連絡が来ます。ベルガ―というドイツのブランドを担当して大石でした。この大石が中々の曲者というか切れるというか合理的な26歳の男でした。

彼と会わなければ新店舗は軌道に乗らなかったかもしれません。この無名なマックスマーラの雰囲気に似たブランドを熱心に薦めてくれたので来年の春夏のオーダーをしてしまったのです。数は20点前後でしたが金額は下代80万円位でした。

その時思ったのはかなり商品数が無いと店は埋まらないと感じました。内心は不安を覚えてきたときでした。もしマックスマーラを素直にやらせてくれればパリにはいかなかっただろうし、日本で別なことを考えていたでしょう。売ってくれないなら自分で探すなんて負けん気が強かったのでこんなことになったのです。

つまり、経験をしてみて判断していく、その時々に考え進んで行く発想しかこの時は無かったのですがそんな自分の発想も気にっていたのでしょう。 先入観に縛られず、やりたいことをやるにはどうしたらいいのか。それを突き詰め考えて、答えが出したらその通りに行動する。この時の行動が自分でも真骨頂だったと思います。


財布やアクセサリーなどの小物はヨーロッパ商事が扱っていたので問題はメインの洋服でした。有名でなくてもそれ相応に下代も高いのがインポートです。あれこれと大石がブランドを薦めてきますが、こちらが望む金額で買える品はなかったに等しかったので仕方がなくパリで買付をすると決めたのです。まあ背水の陣と言ったところだったのでしょう。

最初にパリのサンドニと言う場所に行きました。ここは日本でいえば日本橋界隈の問屋街とでも言っておきます。当然スーパーブランドなんてありません、ごく普通の[made in France]で、その商品ならいい方で、モロッコ製、チェニジア製とか縫製も良くなかったのです。

しかし田中はこの場所がすきだったのです。何故か?この場所は娼婦街でもありました。昼間から店先で毛皮を着てその下は下着だけの格好で立っていたのです。それも1人とかではありません3.、4メートルおきに10人以上立っているのです。

ですからそれを見に男が車に乗って見に来ますのでいつも大渋滞でした。商品を2,3日は通って探してみたもののピントきたものはないので、踏ん切りがつかず買いませんでした。「どうするんだ?」思惑が外れて困ってしまいました。

その時に日本を発つ前に持ってきたFAX一枚を思い出します。本来なら辞めた会社の仕入れ先から買うのは、ちょっと仁義に違反する思いがありましたが、本当に焦っていましたので、荻野さんに直接電話で連絡してもらったのです。

連絡すると私の事は覚えていたのか、お世辞で覚えていると言ったのかわかりませんが、話した感じは悪くはなかったそうだ。しかし、とにかくこちらに来て何が欲しいか話をしたいというので一番安い方法のレンタカーを借りてフィレンツエに向かったのです。


フィレンツエでロマーノに会うことができた私達はロマーノが運転する車で郊外にあるニット工場にいきました。ロマーノは前回買付をした商品と似た雰囲気を作っているメンズの工場に連れていったのです。しかし9月の末では冬物も来春の商品オーダーも出来ない時期でその後2,3工場を回ったのですが結果はだめでした。

荻野さんもフランス語はできますが英語はちょっと上手くなく、片言の英語ですからこちらの思いが届かないようでした。前社でオーダーした時もワンシーズン先のオーダーだったのでロマーノもその為に来たと思っていたのです。

「何をやっているんだ、俺は」とアパレルの事が判っていなかった自分に腹が立ちました。考えの齟齬を正して、行先を修正してもらい冬物をオーダーできる工場を探してもらいそこに行きました。しかし障害がありました。

今度は枚数の制限をいわれたのです。1型につき一色100枚。これが最低単位でした。これは1店舗の仕入れの枠を超えています。12坪店で売りきれるとは思えまません。でもモノはさすがに良く、注文数が多いだけに廉価でした。

咄嗟に思いを巡らし、一緒に来ている田中に卸営業する商品としてどうかと聞くと、あまり考えない男ですら、「やりますよ!売りますから大丈夫です」なんて言うことでオーダーをしたのです。

そしてロマーノはもう一軒の工場に連れて行きました。ここは数多くのブランドがありましたが望むものがなかったが、時間をかけてやっと見つけて全部で13万円位買ったのを覚えています。頼みのフィレンツがこの状態で先行きに不安が増して来ました。

ロマーノに再会できたことは収穫ではあったが、フランス、イタリアと思うように仕入れが出来ない状態で帰国となるのです。社長に会いたくないなと本心から思いました。店舗に商品不足で埋まらい事をなんて説明したらいいか考えが付かなかったからです。とっても冴えない気分でした。

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