私たちは物語に何かを期待している。
私たちは物語に何かを期待している。これから度々出てくる「私たち」というのは主語が大きすぎるかもしれないが、「少なくとも私は」という体で読んでもらいたい。
「物語」というのには小説はもちろん、映画に演劇、音楽なども含まれるだろう。私たちはお金を出してそれらを消費する。でも、実際にページを開くまでは、足を運ぶまでは、ヘッドフォンをつけるまでは、それらがどのような内容なのか知らない。
知らないのにお金を出すのは何故か。それはきっと、心のどこかで期待しているからだと私は思う。物語は、「自分の何かを変えてくれる」「知らない世界を教えてくれる」「退屈な日常にスパイスをくれる」「辛いことを忘れさせてくれる」かもしれない。そう思うから、私たちは物語に焦がれる。つまり「これを知れば何かが変わる」と思っている。期待している。
実際はどうだろうか。絶対に変わるわけではないだろう。ジャケ買いした小説やCDがイマイチで失敗したなあと思ったり、話題の映画や舞台が自分には響かなくて残念に感じたりするのなんてよくあることだ。
でも、何気なく選んだ物語に心打たれることだってある。ふとした瞬間に昔読んだ小説の一節が浮かんで救われたり、シャッフルでかかってきた曲がその時の自分の心情にぴったりで泣きそうになったりと、のちのち響くことだってある。
物語というものは不思議なもので、受け取り手が知らないこと100%のものでは響かないことが多い。私たちは未知を体験したいが、そのためには共感が必要なのだ。「これは自分の物語だ」と思えないと、物語の中に入ることができないから。現実世界を忘れて物語に入り込んだとき、知らない世界の誰か越しに未知を体験するのである。自分と重ねた誰かが必死に生きているのを見て心が動くのである。私たちはきっと、それをしたくて物語を探す。
私たちは物語に何かを期待している。それは自分の物語に飽きたからかもしれないし、絶望したからかもしれない。
でも、知らない世界の誰かの物語に期待できるのなら。きっと自分の物語にだって、また何度でも期待できると私は思う。