【百合掌編】勝浦の風
二時間ドラマのラストみたいな眺めだった。太平洋が視界いっぱいに広がり、はるか下からは岸壁に打ち付ける波の音が響く。ドラマと違うのは、真犯人が自白しているシリアスなシーンでこんな可愛らしい鐘が置いてあったら台無しだろう、ということ。
ここは『理想郷』と名の付く場所。かつて別荘地にする計画があったが、立ち消えて名前だけが残った。今では空と海と潮騒と、それから鐘だけが存在する静かな世界。避寒地とされたこともあり、陽射しは柔らかく私たちを歓迎してくれる。ただ、今は暖かい陽射しよりも爽やかな風のほうがありがたくて。
「・・・腹がからい」
隣で彼女がぼやく。額には汗が浮き出て頬がほのかに赤いのは、ここまで来るのに登ってきたハイキングコースのせいだけではない。程度の差はあれ、私も似たようなものだろう。ここに来る前に食べたタンタンメンが熱をお腹からじわじわと体中に広げている。首筋を通り抜ける海風が心地よい。
「スープ、ほとんどラー油だったもんね。薄いラー油」
私も彼女に同調する。
世間一般に知られている担々麺はスープがゴマをベースとしているため、香辛料の刺激を多少マイルドにしてくれる。だけどこの土地の名物のタンタンメンはゴマを使用せず、真っ赤なスープと真っ向勝負することになる。もちろん店によっては辛さ調節できるが、隣で未だに汗を浮かべている彼女は調子に乗って大辛を頼んだのだ。私は身の程を知っているので中辛にしたけど、それでもあの店では世間一般でいう激辛の部類だった。その上をいく辛さといえば、いかほどだろう。漁師さんや海女さんに海で仕事をしたあとの冷えた体を温めてもらうために作られた、という話も納得である。
海から吹きつける風が心地よくて、私たちは誘われるように崖の近くへ。太古の昔に波で侵食されたのであろう、デコボコした岩がむきだしになっている地面に足を取られないよう気をつけながら。彼女とふたり、水平線を見つめて隣同士。自然と距離が近くなって汗ばんだ彼女の上気したにおいがしそうだけど、不快ではまったくない。むしろ、そそる。
・・・こんなところに来てまで何を考えているんだろう。煩悩を振り払うように視線を横に逸らすと、海を臨む鐘が目に入った。さっきから気になっていたやつだ。垂れ下がった紐を握り勢いよく手前に引く。
カン。
のど自慢で音痴を披露した時みたいな情けない音が、海へと落ちる。あれ、鐘ってどうやって鳴らすんだっけ。そういえば日常で鐘を鳴らす機会って無かったな。
「こうやるんだよ」
彼女は苦笑しながらそう言うと横に並んで、まだ紐を握ったままの私の手を取る。何かの共同作業みたいに。
「打ち付ける瞬間に手を離せ。そうすれば鐘の振動を邪魔しないから良い音が出る」
なるほど、さっき情けない音が出たのは打ち付けた後も紐を離さなかったからか。納得するのと、彼女が私の手を両手で包み込むのが同時。やわらかな体温が手から、背中から伝わる。
せーの、と。声に出さずとも伝わる気がした。
カァン。
景気の良い乾いた音が水平線の向こうまで届くようで。
1、
2、
3秒、世界から音が消えたのは、鐘の音色が響いたからだけではなくて。
上気したにおいが間近に、伏せたまつ毛が触れあうくらいに。唇に触れる彼女の柔らかさの中に、まだ残っていた辛さを感じる。
私から離れていくしたり顔を見つめて、とりあえず言ってやる。
「ここ、国定公園。公共の場だよ」
「他に誰もいないだろ?」
「そういう問題じゃなくて」
「悪かったよ」
「あと、そういうのは合意のうえで」
「わかってるって」
わかってないでしょ、と出かかった言葉は呑み込まれる。彼女が鐘のある高台を降り始めたから。
「風、強くなってきたから。続きは家で、な?」
帰りの車内でたっぷり説教してやる。そう思いながら後を追おうとして、前向きにつんのめる。彼女が抱き止めてくれなかったら、むき出しの岩場に頭からダイブするところだった。おのれ、太古の波の侵食め。
「ほら」
軽く微笑みながら手を差し伸べられる。こういうところはカッコよく見えるのが悔しい。
手を取り、彼女の手指がすっぽりと私の手を覆う。女性としては長い指に包まれて、思わず節ばった中指まで意識してしまった。このあと、家に帰ったら「続き」がある。
お腹の底に、タンタンメンではない熱が灯るのを感じた。なんというか、くやしい。
崖を吹き抜ける風が、呆れたように私たちを見送っている。はいはい、家でやりますよ。
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