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藤井風の音楽は、題名のない毎日に優しく流れる

言葉にするまでもない些細な生活を繰り返している人々に届く音楽とは、どんなものなのだろうか。

ふと、考える。テンションを上げたいとき、何か大事な出来事があって、緊張を解きたいとき。悲しみに打ちひしがれている心を癒したいとき。
それ以外の、とるにたらないけど一生懸命な日々を想いたいとき、特別じゃない、零れ落ちてしまいそうな毎日のふとした隙間に沁みてくる音楽を探すのが好きだ。いわば、人生のルーティンみたいなものになっている。米津玄師の「まちがいさがし」が私にとってそうであったように、(https://rockinon.com/news/detail/193541?rtw)人一倍傷つきやすくナイーブな私は、生きるすべとして優しい音楽を探すのだ。

言葉と同じで音楽も、ラウドに、派手に、アドレナリンを爆発させて”叫ぶ”ことができる。音が大きければ大きいほど遠くにいる人まで届くし、自分の思いを伝えることができる。
そうして生まれた連帯や共感は、まるでその場にいる人たちでシンガロングするような歓びを生むし、自分はひとりで生きているわけではないんだ、と思わせてくれる。

しかし、最近SNSを見ていて思うのは、大きな声で主張されている、叫ばれている言葉が、不意に誰かの心をきゅうと絞って苦しめていたり、生きづらさを感じさせたりしているのではないかということだ。

男性はこうだから、女性はああだから憎い。永遠に交わらない分断による一方的なヘイト。
他人の人生のステータスを観察し、チクチクと針の先で刺すような苦言の渦。
誹謗中傷の末に絶たれた命。弱いもの虐め。ひとりよがり。

もはや人々を勇気づける言葉はそこになく、ただ憎悪の連鎖を生むしかない雑音にまみれた社会の縮図としてのSNSを見て、辟易しているのはきっと私だけではないだろう。

部屋に西日が差し込んでくるまで動けない日がある。素性の知らない他人が発した言葉で、おそろしいほど落ち込んでしまう日がある。そんな日に意を決して外に出てみると、公園で幼い子どもたちがサッカー遊びをしていたり、犬の散歩をしている家族同士が話したりしている。

あっけない。あっけないけど、たしかにここに、この世界にある、穏やかな光景。
日記にも、本にも、映画にも音楽にも、どこにも描かれていない、毎日の中の1日。

「さわやかな風と帰ろう やさしく降る雨と帰ろう 憎みあいの果てに何が生まれるの わたし、わたしが先に 忘れよう」

そんな光景を見ているときに、藤井風の歌声がふと脳裏に浮かんでくるのだ。
スリルもハプニングもない、劇的とはほど遠い、唯々ゆるやかに過ぎていく時間の流れに乗せられる、目の前の淡い世界に溶け込む優しい歌声。

“聴く”。ああ、私は今、誰よりも純粋で透明な結晶だ。


もういちど、はじめの問いを反芻してみる。

“言葉にするまでもない些細な生活を繰り返している人々に届く音楽とは、どんなものなのだろうか”。

きっとそういった音楽こそが、意図せぬタイミングで、お守りのように私たちを救ってくれるのだと思う。
題名のつかないメロディ(日常)に、彼が、藤井風のような優しい人が言葉を紡いでくれる。
そのことが、どんなに嬉しいか。どんなに忘れかけていた優しさを思い出させてくれるだろうか。

藤井風の音楽は5時のチャイムのようだと思う。
毎日、当たり前に流れている。なのに飽きることなく、ああ、今日も1日が終わる、と安心できる懐かしさといとおしさ。

そんな音楽こそが、今という時代に必要な気がしている。

2024.9.6


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