セクハラについて:耐えている人の苦痛を僕は想像できない

 僕がある会社に入社したのは、年度一杯が平成であった最後の年であり、会社を辞めたのも平成最後の年度末のことだった。

 一年足らずで辞めると、再就職しようという時に不利になるなど、様々な言葉で引き留められたが、僕にとってそんなことはどうでもよかった。

 眠れなかった。ただ、眠りたかった。

 別に会社自体が給料未払でサービス残業が毎月300時間あって上司の気まぐれで飲み会に夜明けまで付き合わされて、といった、絵に書いたようなブラック企業だったというわけではない。

 会社の先輩が社内の罰則に引っかかるので申告していない残業時間が3桁行ったなどと自慢げに話し、別の先輩が「これを正常だと思っちゃいけないぞ」と耳打ちしてきた事はある。

 それでも、少なくとも新人の僕が70時間残業した月はなかったはずだ。

 ただ、僕が男であることもあり、おそらくは無自覚に、彼等にとっては善意で繰り返されるセクハラに耐えられず、3日に1回程度のペースで夜通し嘔吐する生活が続いていた。

 2頭身の妖精さんが常に僕の周りを飛び始めたころ、信頼のおける人から一緒に仕事をしないかと誘われた。

 僕が会社を辞めた理由は、ただそれだけだ。

 会社を辞めた後、かなり重い鬱病という診断を受けた。こんなことならやめる前に病院に行っていれば後が楽だったのにと思ったが、後の祭りだ。

 閑話休題。セクハラに話題を戻そう。僕が受けたセクハラの苦痛は、世の中の女性の何割かが現在進行形で耐えているものとイコールか、それ以下なのだと思う。以上ということはまずないだろう。

 それでも僕は耐えられなかった。そしてどこかの女性が耐えている。

 わざとやるなど言語道断だが、ほんのわずかな気づかいのミスでも、多大な苦痛を与えうる。「これくらい大丈夫だろう」という油断が、誰かに眠れないほどの忍耐を強いる。

 ほとんどの場合加害者になってしまう男性の一人として、「このくらいのこと」と思っているだろう内容でさえ、場合によっては人一人を眠れなくするくらいのダメージを簡単に与えうるということを、知ってほしいと思う。

 これから記すのは、僕が体験したことだ。場合によっては不愉快かもしれないので、ここで読むのをやめるという選択肢がある、ということを強調しておきたい。

 元の会社の人たちに恨みがあるわけではなく、セクハラが当たり前に、無自覚に行われるという病的な文化の当事者として、一人の人間が体験したことを示したいだけなので、可能な限り特定されないようぼかしている。

 僕は入社してからしばらく、会社の営業所に配属されていた。入社して最初の誕生日を、僕はその営業所で迎えた。

 その会社には誕生日に社員同士でお金を出し合ってプレゼントを贈る文化があり、僕にも他の社員と同じようにプレゼントが渡された。

 渡されたのは「アダルトグッズの詰め合わせ」。

 端的に言って、殺意が沸いた。営業所の人間皆殺しにしてやろうと思った。自分はそういうものに対して潔癖症めいたところがあるのだなと、妙に冷静に俯瞰しているもう一人の自分を認識した。

 彼らはあくまで笑顔だった。僕が趣味や欲しい物の話をしないから何を贈ればいいのか分からないし、とりあえず男だしこういう悪ふざけも許容されるだろうという程度の考えでそれを選んだのだろうということは、怒りを通り越して殺意に冷えた脳髄が冷静に推測していた。

 だから、僕は顔面の筋肉を総動員して笑った。

 営業所の女性の先輩が包みの中にあった女物のパンツを僕の顔面に被せ、写真を撮った。そのあたりから、僕はついうっかり誰かを殴ってしまわないかということに意識を向け続ける必要があった。

 その日の夜、僕はもらったプレゼントの包みをゴミ袋にブチ込み、トイレで夜通し嘔吐した。酸っぱい物を吐き尽くしても胃の痙攣は収まらず、何か凄まじく苦い物も吐き出した。

 ようやくまともに呼吸できる程度に落ち着いた時にはもう、翌日の出勤時間だった。出勤し、社内の相談窓口に転属希望のメールを送り、可能な限りいつも通りに振る舞った。

 それからの一週間は、トイレの便器を抱いて3時間眠れればよく眠れたほう、といった具合だった。

 それでも少しずつではあるが眠れる時間が確保できていた1週間後、営業所の先輩が僕にアダルトグッズの感想を尋ねた。

 それのせいで眠れず嘔吐する夜を過ごしていることは伏せ、捨てたことだけを答えた。彼等の善意が僕をどうしようもなく痛めつけていることだけは隠してあげたかった。

 彼らは僕を糾弾した。贈った側の気持ちがどうだとか、まあそういう内容だったと思う。あまりにも不快だったので意図的に記憶しないようにしたことは、はっきり覚えている。

 その日から、僕は彼らの顔が認識できなくなった。

 限りなくヒトに似た異なる生物、人型のオブジェ、そう認識しないとその時の僕はもたなかったのだろう。

 転属が叶ったのはそれから2カ月ほど先、相談窓口にメールを送る前から決まっていた定期異動だった。そのころには、3日に1回程度まで夜通しの嘔吐は収まり始めていた。

 異動してすぐ、人事の方と話す機会があったが、その時の言葉はおおむね以下のような内容だった。

「仲間思いで悪ふざけが好きな社員が多いから、君へのプレゼントもそういう悪ふざけに過ぎないのであって、それよりも祝ってあげようという彼らの気持ちを考えたほうがいい」

 そんなことは殺意の中で考えたし、だからこそ僕は彼らを殺していない、という反駁を飲みこめたのは、奇跡的だったと思っている。

 人事の、少なくとも末端ではない人物(たしか入社研修の責任者をやっていた人だった)がこう断じる程度には、アダルトグッズを贈るという行為は、彼等にとって異常ではなかった。

 その文化に30年以上これから付き合うのだと考えると、それだけで吐き気がこみ上げた。せっかく3日に1回まで減った夜通しの嘔吐が、また毎日に戻ったのはこの日だ。

 肝心の転属先は、会社の文化自体がそうだったのだからあまり変わらなかった。会話にそういう単語が混じるのは当たり前、そういう店に行こうなどという話題もそれなりの頻度であった。

 無理に誘われなかったのは、営業所時代のことを知っていたからだろう。

 それでも結局、3日に1回までしか夜通しの嘔吐は減らなかった。つまりはそういう文化がそこにはあった。僕が適応できなかっただけだ。

 ブラック企業ではないし、僕個人の感情を全力で排除して俯瞰すれば普通の商社だった。誰が悪いわけでもない。ただ、僕の潔癖症めいた感性がどうしようもなく社の文化にあわなかっただけだ。

 ただ、その文化そのものが、そういう性的な冗談、悪ふざけが当たり前にある職場という風土そのものが、僕に見えないどこかで、僕の知らない女性に眠れないほどの我慢を強いているのではないかと思ってしまう。

 僕はその環境から解放されたからまだいい。そこからまだ抜け出せていない人、抜け出した後が心配で踏ん切りがつかない人、そんな人のことを思うと、僕に何ができるだろうと、考え込んでしまう。

 このやり方が正しいのかは分からないが、まず、僕は僕の経験を発信することにした。

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