サウンドトラックみたいな音楽を
雨降りの朝、ひさしぶりにThe Pastelsの”the last great wilderness”を聴いた。聴いているうちに「サウンドトラックみたいな音楽をつくりたい」と言っていたことがあったな、と急に思い出した。その頃、二十代半ば。わたしは楽理の学校に通い、作曲のクラスにいた。
あのとき、自分のなかでちらちら見えては消えてしまう、靄のようなとりとめのない光にどうやって音をつけたらいいのか、音を出したらいいのか、聴いてもらったらいいのか。本当にわからないでいた。
その音、は今の自分のことばで置きかえると、声、になるのだろう。
クラスの最初に配られた「どんな音楽をつくりたいですか」というアンケートに、冒頭の「サウンドトラックみたいな音楽を…」と書いて提出した。
なんだかぼやんとしていて、映画あってのものだからなにかに依っていて、焦点が定まっているようでいないのだが、自分にとってはこれだな、と思っていた。クラスの先生もぱっとしない表情をしていたのを覚えている。まわりは、もっと具体的に自分のつくりたい音をことばで表し、既に音を鳴らしているひともいた。その曲や話を聞かせてもらいながら、わたしは焦ってやる気をなくすばかりだった。(そのクラスも途中で行かなくなってしまった。)
でも今、こうして書き続けているものもなんら変わりがないのだと気づく。なにかとならんで、ひとつの景色をみるように歩いていたい。
その歩き方がわからなくて、ためしに<わたしは>という主語で書いてみたこともあった。けれど、それでは自分がどうも苦しかった。なにかと対面で向き合うのは息苦しい。それでも、わからなくても愚かでも、<わたしは>からはじめるしか、わたしにはできないのだと気づいたのは最近のことだ。やっと、<わたしは>と書けるようになり、言えるようになり、物事を言い切ることにも挑戦している。失敗しないと学べない体なので、どうも賢くはいかないらしい。そうやって恐る恐る生きてるあいだに何十もの年月が過ぎたことか!
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“the last great wilderness”(2003)は、同名のタイトルの映画のサウンドトラックだ。映画そのものを観たことはないけれど、音楽を聴きながらその物語や映像を想像する。ここはきっと夜のシーンで、ここではきっと人と人が思いがけず出会うのだ、とか。それだけで愉しい。
The Pastelsは結成されて40年近くになるのだが、そのあいだにリリースされたアルバムは5枚。追いかけることさえ忘れさせてくれるほどのスパンがわたしにはちょうどよく、時々聞きたくなっては、しばらく聴いている。ある期間を置くとかならず戻りたくなる、そんな音楽。
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当時、「illumination」(1997)を聴いた時、ようやくスティーヴンが思
い描いていた音を描くための絵の具を手に入れたような気がした。制作
物の細部にまでこだわるスティーヴンは、(略)たとえば夕暮れの光の
感じとか、雨上がりの透明な空気とか、そういった空気感や感触を音に
しようとして試行錯誤していたに違いない。きっとそれは、スマートな
演奏やエモーショナルな歌声では表現できない何かだったのだ。
—The Pastels「Slow Summit」(2013) ライナーノーツより/村尾泰郎
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今のところの最新アルバムである「Slow Summit」を手にした日。渋谷のタワーレコードでアルバムを買い、乗り込んだ銀座線でこのライナーノーツを読んで人目もはばからずぼろぼろ涙を流してしまったのはいい思い出。CDもまだ聴いていないのに、あのとき音になれなかった、ちいさな星のまたたきがそこから聴こえたような気がしたから。
声にならなかった声も、音にならなかった音も、べつの場所で今日みたいな日にひっそりと響いてくる。ずっとあとになってからしかわからないから、そのときはひどくもどかしい。
音は、旅するあいだにうたというかたちあるものになって、遠くの誰かのもとにたどりつくことができる。