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NTの「宇宙」とSPの「世界」
経営者が歳を重ねるにつれて、次第に「宇宙の法則」とか「宇宙の真理」みたいなものに傾倒していく様子をよく見かける。宇宙には人間を生かしていく力があり、それに気がついた瞬間から無限の宇宙の力が流れてくる・・・みたいなアレ。ある程度の成功を収めた後、実務から離れて組織運営のような抽象的なテーマを考える余裕が生まれると、そういう話に惹かれがちなのかもしれない。
自分は正直、そういう話を聞くと「うさんくさ」と思ってしまう。物理法則みたいな話であれば納得できるのだけど、教育や哲学の文脈でそういう話を聞いたところでどうにもピンとこない。
ふと、これはNT(知識人)とSP(職人)という気質の違いから来る違和感なのではないか?と思い至った。NTとSPの対比を軸に、外界の捉え方を考察してみる。
NTの「宇宙」:普遍的な法則性を追求するための抽象的空間
NTにとって、外界は「理解すべき構造」として存在する。すべての事象には法則やメカニズムがあり、それを明らかにすることに価値を感じる。
「宇宙」という言葉に惹かれる理由のひとつもここにあるのかな、と思う。「宇宙の法則」とは、外界のすべてを包摂する普遍的な原則のことだ。NTは、その法則性や秩序を解明することを望む。例えば、経営者が「成功に繋がる宇宙の法則がある」と語るとき、それは自分が行動するための客観的なルールを明らかにしようとする試みのように見える。
外界のすべてを包括する「宇宙」は、彼らにとって普遍的な法則性を保つための理想的な舞台であり、外界をコントロールするための鍵となるのだろう。
SPの「世界」:主観的な経験で形作られる仮想空間
一方、SPにとっての外界は自身の視点や意味付けからの延長線上に存在している。外界構築のプロセスに普遍的な法則や秩序というものが干渉することはなく、主観的な現実経験がこの世界における全ての出発点である。
SPは、自身の価値観を外界にそのまま投影する。「宇宙は存在する」と主張するSPは、学校の授業や周りの人から「宇宙」についての話を聞いて、それを「もっともらしい」と判断し内面化しているだけに過ぎない。「話を聞く」という主観的経験を出発点として「世界」が広がっている。NTのように、「宇宙が存在すると仮定しないともろもろの現象に説明がつかない」という包括的な思考を経ているわけではない。
自分(ISFP)の場合、外界を「宇宙」として捉える感覚があまりない。自分にとっての世界は、目に見えて手に届く範囲内のもので完結している。なので、自分が死んでも世界は変わらず続いていくなんて思っておらず、死を迎えた瞬間と同時にこの世界も無に帰すのだと本気で考えている。あくまでも主観的な観測ありきでの「世界」なのだ。
結論:どちらも正しい
NTが追求する「普遍的な法則性」とSPが重視する「主観的な観測」は、一見対立しているようで、実際には相互に依存している。宇宙探索は宇宙が確かに存在することの証明である一方で、その証明の過程には必ず主観的観測というプロセスが存在する。これら2つの外界認識の仕方は表裏一体的であり、どちらも正しいと言える。
宇宙があるから世界があるのか、世界があるから宇宙があるのか。これらの主従関係は不安定な均衡のもとに成り立っており、なにかの拍子で容易に逆転し得るものであると思う。
だから自分は「宇宙の真理」みたいな言説に対してうさんくささを覚えるんだろうか。説明に都合の良い視点からの解釈に偏っているように感じるから。