昭和の日

ゴールデンウィークを過ぎてしまいましたが、ゴールデンウィークが始まる前に、まずは、昭和の日。今、高学年を担任していたら、これくらいは話すかな、というものを考えて見ました。

さてさて、祝日シリーズ始まり始まり。今日は明日から始まるゴールデンウィーク中の祝日についてお話します。もう3月まで何度もやって来たから、先回りして調べてあるよね…。

まず第1弾。そう、明日の国民の祝日は、「昭和の日」です。ちなみに、今は令和ですが、昭和はいくつ前かわかりますか。そんなに大昔じゃないよ(笑)。先生が昭和44年生まれなんだから、遠い昔のような時代ではないからね。みんなのお父さんやお母さん、おじいちゃん、おばあちゃんくらいまではほとんどが昭和生まれなのではないでしょうか。

では、なぜ、この日がそもそも昭和の日なのでしょうか。それは、この祝日の名前の変化でわかります。何度か祝日名が変わっているのです。

「昭和の日」の前はなんだか知ってますか。

「みどりの日」です。

あれ、どこかで聞いた祝日名ではありませんか。そう、5月4日の祝日が「みどりの日」です。でも、もう一つ、その前に違う祝日名が付いていたんです。

それは、「天皇誕生日」です。

4月29日は昭和天皇の誕生日です。

ちなみに、「昭和」という元号の由来は中国の書経という書物の「百姓(ひゃくせい)昭明にして、萬邦(ばんぽう)を協和す」から来ていて、国民の平和及び世界各国の共存繁栄を願う意味です。

ところが、昭和という時代は一言で言えば激動の時代でした。なんといっても大きな出来事は、昭和16年から始まった戦争です。昭和という時代はざっくりいうと、戦争へ突入、アメリカに負け、どうなることかと思いきや、その後、日本人の努力によって復興し、平和が訪れた時代、と言えるのかもしれません。

そんな激動の時代ととともに昭和天皇がいらっしゃいました。

ここで、少し長くなりますが、昭和天皇のエピソードをご紹介します。

(ここから)
戦争がようやく終わり、アメリカに占領されているときのお話です。
昭和20(1945)9月27日のことです。昭和天皇が一人の通訳だけを連れてマッカーサーのもとを訪れました。
「ついに天皇をつかまえるときが来た!」
事前に連絡を受けていたマッカーサーは二個師団の兵力の待機を命じました。
この時点で陛下をどのようにするのかGHQの中でも議論が交わされていました。
 方針は大きく分けて三つありました。
一、東京裁判に引き出して絞首刑に処する。
二、日本共産党をおだてあげ人民裁判の名のもとに血祭りにあげる。
三、China(今の中国)に亡命させて秘密裏に殺害する。
いずれにしても、陛下を亡きものにすることが決められていたのです。
ですからマッカーサーは陛下が命乞いに来られるのだと思いました。
このため彼はパイプを口にくわえてソファーから立ちあがろうともしませんでした。
このパイプをくわえたマッカーサーの姿は、彼が日本に降り立ったときの姿としても有名なものです。
当時の米国はトウモロコシが主たる産物でした。
これが小麦にとってかわるのは、日本占領後日本の農林十号と呼ばれる小麦が米国に渡ってからのことです。
ですから当時トウモロコシでできたパイプ(コーンパイプ)は、米国の象徴だったのです。
パイプタバコをやったことがある方ならおわかりいただけると思いますが、マドロスパイプのような柄の長いパイプは長時間咥(くわ)えていれません。口からヨダレがタラタラと流れてしまうからです。
ですからマッカーサーがパイプをくわえるということは、米国のトウモロコシが日本を制圧したことの象徴であり、彼独特の先勝を誇示したポーズでもあったわけです。
椅子に座って背もたれに体を預けて足を組み、パイプを咥えた姿は、ですから陛下をあからさまに見下した態度であったわけです。
そのマッカーサーに対し陛下は直立不動の姿勢をとられました。
そして国際儀礼としてのご挨拶をしっかりとなさったうえで、このように仰せられました。
「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟があります」
弱ったのは通訳です。その通り訳していいのか?けれど陛下は続けられました。
「しかしながら罪なき八千万の国民が住むに家なく、着るに衣なく食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように。」
マッカーサーは驚きました。
世界中、どこの国の君主でも自分が助かりたいがために、平気で国民を見捨てて命乞いをし、その国から逃げてしまうのが、いわば常識です。
ところが陛下は、やれ軍閥が悪い、やれ財閥が悪いという当時のご時勢下にあって、「一切の責任はこの私にあります、絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても」と淡々と仰せになられたのです。
マッカーサーは、くわえていたパイプを、机に置きました。
続いて椅子から立ち上がりました。
そして陛下に近づくと、今度は陛下を抱くようにしてお掛けいただきました。さらに部下に、
「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーをさしあげるように」と命じました。
マッカーサーは今度はまるで一臣下のように掛けていただいた陛下の前に立ちました。
そこで直立不動の姿勢をとりました。
「天皇とはこのようなものでありましたか!
 天皇とはこのようなものでありましたか!」
彼は、二度、この言葉を繰り返しました。そして、
「私も、日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ますことがあれば、何なりとお申しつけ下さい」と言いました。
陛下も、立ち上がられました。そして涙をポロポロと流しながら、
「命をかけて、閣下のお袖にすがっております。この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」と申されたのです。
こののちマッカーサーは陛下を玄関まで伴い、自分の手で車の扉を開けて陛下をお見送りしました。
そしてあわてて階段を駆け上がると、これまでのGHQの方針を百八十度変更するあらたな命令を下しています。
このことがあったあとマッカーサーは、次のように発言しています。
「陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた。」
「ヒロヒトのおかげで父親や夫が殺されたんだからね。旅先で石のひとつでも投げられりゃあいいんだ。ヒロヒトが四十歳を過ぎた猫背の小男ということを日本人に知らしめてやる必要がある。神さまじゃなくて人間だということをね。それが生きた民主主義の教育というものだよ」
昭和21年2月、昭和天皇が全国御巡幸を始められた時、占領軍総司令部の高官たちの間では、そんな会話が交わされていたそうです。
ところがその結果は高官達の期待を裏切るものでした。昭和天皇は沖縄以外の全国を約8年半かけて回られました。
行程は3万3千キロ、総日数百六十五日です。 各地で数万の群衆にもみくちゃにされたけれど、石一つ投げられたことさえありませんでした。
英国の新聞は次のように驚きを述べました。
「日本は敗戦し外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地の巡幸で群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では天皇が唯一の安定点をなしている」と。
イタリアのエマヌエレ国王は国外に追放され、長男が即位したが、わずか一ヶ月で廃位に追い込まれています。これに対し日本の国民は、まだ現人神という神話を信じているのだろうか。欧米人の常識では理解できないことが起こっていたのです。
昭和の時代は世界恐慌から支那事変、先の大戦、戦後の復興、東京オリンピック、そして高度成長と、激動の時代を生きられたのが昭和天皇です。
その昭和天皇の辞世の御製です。

 やすらけき世を 祈りしも いまだならず
 くやしくもあるか きざしみゆれど

この御製は昭和63年8月15日に陛下が全国戦没者遺族に御下賜遊ばされたものです。
「安らかな世をずっと祈り続けたけれど、それはいまだなっていない。そのことが悔しい。きざしはみえているけれど、そこに手が届かない」
という意味と拝します。
昭和天皇は崩御される直前に、「悔しい」と詠まれておいでなのです。
(ここまで)

どこまでも国民のためを思うご生涯を遂げられた昭和天皇の思い、皆さんに届いたでしょうか。

「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす日」

戦後、76年が経とうとしています。今、私たちは平和な状態というものが当たり前だと想っていますが、世界を見ればわかるようにそれが当たり前ではない国もあります。

この日くらいは、なぜ、今の日本が平和な状態でいられるのか、また、この先は本当に大丈夫なのだろうかと考えてもいいのではないでしょうか。

この先も平和な状態が続くかどうかは私たち一人ひとりにかかっているのです。

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