5月15日は沖縄祖国復帰の日
さて、5月の祝日は連休中に終わってしまいましたが、5月には日本にとって、とても大切な日がまだあるんです。何日かわかりますか。
15日です。
この日は、日本の47都道府県のある県に関係する日です。47分の1。わかるかな。
答えは、「沖縄」です。では、何の日か。
「沖縄が●●●●から日本に○○された日」です。●には国名が入ります。○には漢字が入ります。
答えは、「沖縄がアメリカから日本に返還された日」です。
返還ってことは返すって意味だし、そもそも、何で日本の県なのに他の国から返されるのって。ってことは、沖縄がアメリカになった時があったってことだよね。なぜでしょう。
時を昭和の時代に戻してみましょう。
76年前の昭和20年、日本はアメリカとの戦争に負けました。
よく8月15日が終戦の日、なんて言われますが、この日に戦争が終わったわけではありません。正式にはその翌月の9月2日に負けたことにサインする調印式があり、さらにそこからアメリカによる占領が始まります。占領政策は建前は日本政府を通して、ということでしたが、実際はアメリカの言いなりでした。
では、いつまで占領されていたか。昭和27年4月28日までです。ちなみに、今の日本国憲法はこの占領中に制定されたもので、占領中に制定された憲法であれば、無効なのではないか、なんていう人もいます。皆さんはどう思いますか。
さて、4月28日、約7年に及ぶ占領が終わり、日本に主権が回復するのですが、奄美群島、小笠原諸島、沖縄は占領されたままになります。
ここで想像してほしいことがあります。これがどういうことか。例えば、皆さんは千葉県民です。「今日から千葉県民だけ、日本人ではありません。日本のお金も使えません。日本語も使ってはいけません」などとなったらどうでしょうか。容易に想像できますよね。それと同じことを沖縄の人たちは味わったのです。実は、これ、脅かしでもなんでもなく、アメリカは、当初、沖縄を1か月で落とそうとしていたそうです。その後、九州上陸作戦、そして、なんと、関東上陸作戦まで考えていたそうです。ところが、沖縄で苦戦し、3か月もかかってしまった。この沖縄戦があったからこそ、その後の地上戦はなかったのです。
その後、奄美群島は昭和28年に、小笠原諸島は昭和43年に本土復帰を果たしますが、沖縄は最後まで残ってしまいます。
そりゃそうです。なぜなら、沖縄での地上戦はものすごいものがありましたから。ものすごい死者を出した大変な戦いでした。アメリカは自分たちが勝ち取ったという意識でいますし、アメリカは沖縄を日本に返す方針を持っていませんでした。
当時、占領軍のリーダーであるマッカーサーは、「沖縄人は日本人ではない」と発言。つまり、アメリカは、本土と沖縄を切り離してアメリカが沖縄を永久支配することを考えていたのです。
ところが、昭和47年5月15日に沖縄は日本に復帰します。
アメリカの方針は、なぜ変わったのか。
沖縄返還、この日を迎えるにあたって2人の人物を紹介させてください。
まず一人目。昭和天皇です。
昭和天皇は、占領軍のリーダーであるマッカーサーに2つの提案を行います。
一つは、ソ連を中心とした共産主義勢力から沖縄を守るために、アメリカの軍事力を沖縄に展開してほしい。憲法で軍を持たないと規定されていましたからね。
二つは、アメリカが沖縄を永久支配しないことを保障するために沖縄の主権は日本が持ち、沖縄の施政権をアメリカが一時預かる租借という形をとってほしいと。
実はこのことによって、沖縄が永久にアメリカが支配することがなくなったのです。
4月28日に沖縄を切り離して主権を回復したことで、昭和天皇は沖縄を見放したという見方も一部ではあるようですが、それは正しくはありません。
昭和天皇は、占領下の中、これ以上ない方法をアメリカに提案して、沖縄が将来、日本に戻れる選択肢を残しておいたのです。昭和天皇の提案がなかったら沖縄は今もまだアメリカの占領下のままだったでしょう。
二人目に紹介したいのは、なんと、沖縄の一小学校教師である仲村俊子さんです。
昭和27年4月28日に日本は独立を回復しましたが、沖縄は引き続きアメリカに統治されることになります。
取り残された沖縄で祖国復帰運動の先頭に立ったのが、沖縄教員会。仲村俊子さんもその一人でした。
会はまず、教育関係戦没者の慰霊祭を行いました。それから神社の再建、そして日の丸掲揚運動にも取り組みました。
なぜだかわかりますか。沖縄の子供たちに日本人としての自覚を持たせたかったからです。
ちなみに、昭和39年、東京オリンピックが開催、沖縄はまだ復帰前でしたが、日本の聖火リレーは沖縄からスタートしています。
さらに昭和41年に海上自衛隊が那覇港に入港した時には、那覇の中心街である国際通りは自衛隊のパレードが盛大に行われ、やはり、日の丸を持った人たちに大歓迎されていた。これが本当の沖縄の姿だったそうです。
ところが、知らぬ間に復帰運動が安保闘争に巻き込まれて、「米軍基地の残る復帰はいらない」と返還協定反対運動に変わっていってしまい、更には国会では沖縄の人たちが反対するなら無理して復帰させる必要は無いという空気になりました。このときに東京におられる方から「沖縄は復帰できないかもしれない」と仲村さんに連絡が入ったのです。
そこで立ち上がったのが仲村俊子さんです。
国会での採決の前に上京しようと休みを取り、自費で東京に向かいます。デモ行進を行い、国会の人間に涙ながらに祖国復帰を訴えました。懸命に集めた沖縄79団体の署名・捺印入り請願書を提出したそうです。
その甲斐あって、沖縄は祖国復帰となります。
さて、私たちは5月15日をどう受け止めればいいのでしょうか。仲村俊子さんは言います。
「本来、5月15日は祖国日本へ復帰できた喜びの日であったはずです。それが今や、「屈辱の日」と言われ、報道されるのは反基地運動ばかりです」
そう、本来は喜ぶべき、そして、沖縄が日本に戻ってきた誇るべき日だと思うのです。
それは、占領下において、昭和天皇がしてくださったことを考えれば当然なのかと思うのです。
天皇の外出を「行幸(ぎょうこう)」といい、複数個所を回る場合は「巡幸(じゅんこう)」といいます。
昭和21年、昭和天皇は、戦争で疲弊した国民を労い励ますべく御巡幸されました。
途中、アメリカから中止を余儀なくされますが、昭和24年5月に巡行は再開、主権を回復する昭和27年前に行けなかった北海道には昭和29年の札幌での国民体育大会に出席することで沖縄を除き、すべての都道府県の御巡幸が終わります。旗艦にして8年半、総日数165日、全行程3万3千キロに及んだ壮絶な巡幸でした。
しかし、これで全国御巡幸が完全に終わったわけではありません。
昭和47年に沖縄が祖国復帰を果たし、昭和天皇は沖縄訪問を強く願いました。
ところが、沖縄には過激派が入り込み、反皇室活動を展開、昭和50年には沖縄を訪問した皇太子殿下(現在の上皇陛下、平成の天皇陛下)に火炎瓶を投げつけるという前代未聞の事件が起きたのです。この事件のために、昭和天皇の沖縄訪問は毎年、見送られることになります。
そんな中、昭和62年、この年は沖縄国体が開かれる年でした。国体には天皇陛下が出席することになっています。ここでようやく沖縄訪問が実現する運びとなりました。陛下のお喜びは大変なもので、準備が進められていました。
ところが、沖縄訪問を翌月に控えた9月、慢性膵炎で倒れられ、手術を余儀なくされ、遂に、沖縄巡幸は中止となってしまいました。その時の思いを次のように詠まれました。
思はざる 病となりぬ 沖縄を たづねて果さむ つとめありしを
戦争での犠牲が最も多かった沖縄。その沖縄を訪れて果たさなければならない「つとめ」。それは勿論、沖縄の県民の(戦争、長年にわたり軍政下に置かれたことなどの)犠牲や苦しみに対するご自身のお気持ちを心を込めてお伝えになることでした。
しかし、それが叶わないまま昭和天皇は亡くなられました。どれだけご無念だったか。
そのご無念のお気持ちを真正面から受け継がれたのが、他ならぬ上皇陛下(平成の天皇陛下)でした。
上皇陛下が初めて天皇として沖縄を訪れられたのは、平成5年の全国植樹祭。その時、地元の人々は日の丸の小旗で陛下をお迎えしました。他の植樹祭の会場では見ない光景でした。
又、沖縄では毎年、沖縄戦終結の日(6月23日)の追悼式の前夜祭(同22日)では、上皇陛下の沖縄の犠牲を悼む琉歌が、献奏されています。
沖縄の人々の陛下の真心に応えようとする気持ちが伝わります。
上皇陛下は天皇としての最後のお誕生日の記者会見で、沖縄について特に以下のように言及されました。
「沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め、私は皇后と共に11回訪問を重ね、その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくという私どもの思いは、これからも変わることはありません」と。
沖縄の人々への最後の心の奥底からのメッセージでした。
上皇陛下の沖縄への受け止め方は、日本人が広く共有すべきものだと思います。
その沖縄の復帰は日本人みんなの喜びの日として顧みられるべき日でしょう。
最後に、祖国復帰運動の立役者である仲村俊子さんのインタビュー記事において、記者から「原動力の源は何でしょうか」という問いかけに対し、どのように答えたのか、紹介します。
「私は自分の子や孫を愛しています。だからこそ国を守りたい。この国あってこそ家族があり、幸せがあるのです。私はこのことを若い方に分かっていただきたい。家族を愛しているから沖縄を愛し、日本を愛するのです。国家愛と家族愛は一つ。日本なくして、自分の幸せも家族の幸せもありません。私たちは国と一つなのです」
明日(5月14日に話すのなら)は、沖縄返還の日。それも、来年は50年を迎える記念すべき年です。
大きな節目となる50年を国を挙げてお祝いするためにも、まずは、4月28日の主権回復の日も含めて明日、5月15日はどんな形でもいいから沖縄が返還された日をお祝いしませんか。
なぜなら、5月15日は、沖縄が日本に戻ってきた日本国民全員にとっての「喜びの日」なのですから。
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