#009 味覚と記憶
おいしいものは、舌が覚えているって本当なんだなというのはよく聞く話。
徳島県上勝町にある「ペルトナーレ」というイタリアンレストランがある。
「ゴミゼロウェイスト」を目指す上勝町で地消地産で食材を探してきて、お客様に提供しているレストランである。
私も、知人に誘われて思い切って上勝町のペルトナーレにディナーをご馳走になってきたのはもう2年前。
徳島空港から更に1時間かけて山の中にある古民家だった。
庭には鶏を飼い、お店の庭には鹿の頭蓋骨があり、店先には鰻を飼っていて、桶に入れて、「これからこれを捌きます」と見せてくださった。
町を知り、町の空気を知って、食事を味わった。
どの食事もおいしくて記憶に刷り込むように味わった。
そのシェフがこの冬、2回、上京して腕を振るう機会があった。
ひとつは完全プライベートなクローズドの会。
ひとつは仲いい方がたとのコラボディナー。
結局悩んだ挙句、日程と時間が合うコラボディナーに参戦した。
今日はその時の話をしたいと思う。(前置きが長いって。)
コラボディナーはずっとかねがね噂を聞いていた方と料理も出されていたので、純粋にシェフの料理を楽しめるわけではないことを重々承知していたが、
クエの切り身と、鳩の半身がでてきて、食べた瞬間に「あ、シェフの料理だ」とわかった。
その感覚はお店で食べた感覚とも似ているもので、なんでそう思ったんだろうと食べてもう3日も経っているのにずっと引っ掛かりがあって。
火入れとか食材の吟味もそうだけど、ソースが「らしい」のかなとも反芻する。
例えるなら、母の作る味噌汁やポテトサラダがその家らしさみたいなものに近い感じだろうか。ラーメン屋さんのスープとか。
そういうおいしいの記憶はちゃんと舌と目が記憶しているのだと感じた。
あとは、(私はメモをしないとすぐ忘れてしまうけど)そのとき説明してくれた言葉とか、一緒に食べた人との会話だったり。
「これおいしいね~」って言いあいながら感想を述べた瞬間だったりとか。
全部が一体になって記憶になっていくのか。
そして、食に関して言えば、その記憶がずしりずしりと後になって反芻がもっと深くなっていくような気がするのです。
わたしはソロレストランをあまりしないのは、
そういう知識の部分が乏しいから説明を受けたい、みたいなのもあるかもしれない。ひとりじゃ「おいしい」だけで終わってしまうからかもしれない。
実際、今回も会話の中で、今黒トリュフが値段高騰してるんですよって隣で召し上がっていた人に教えていただいた。
それがストンとインプットされていく。
なんでこのシェフの料理が好きなのか?とか、
Aシェフも好きだけど、BやCのシェフも好きで、何がそこに違いがあるのか、そこに何の共通点があるのか、
ずっとずっと言葉で説明を膨らませたいけれども、
出てこないところで、明らかに食のライターに不向きですが、
私の味覚が、記憶としてインプットし刻まれていった瞬間を
もっともっと鋭く観察していきたい。
徳島のまちで、また食べに行きたい。絶対に行くぞと心に誓った。