3月が近づくにつれて毎年感じる心境の変化の考察(途中)
3月といえば別れの季節だ。こう思うのは,春入学の習慣が根強い日本人だからだろう。「桜が散り際に醸し出す儚さに,人生の刹那を重ね合わせながら」―――という粋な描写は日本人なら誰もが持つ心象風景である一方で,この描写は学校教育やマスメディアによる一種の洗脳的なイメージともいえるから過度な執着をすることに一抹の抵抗感があるし,このコロナ禍で育った子供たち,いわゆるニューノーマル世代は桜に対してただのピンクの花だと思うのかもしれない,とか考えている。
3月,4月って暖かくなってきたことで動物的にも,大きな環境の変化のさなかで社会的にもふわふわとしている状態だから,桜を見ているときは精神状態がいつもと違うと思う。だからこそ桜が美しく見える,見えてしまうのかもしれない。お酒に酔うと,2割増しで異性が美しく見える,ってのと近いかもしれない。桜が好きなのか,桜の季節が好きなのか。誰もはっきりと答えられないんじゃなかろうか。
(本題に入る前に桜についてつらつらと書いていたら結構長くなったのでいったんやめる。書きたかったことを箇条書きにしておく。
・別れが近づくにつれて,悲しくなることは幸せだ。
・悲しみが全く湧かない別れも,それはそれで幸せだ。距離をおけるいいきっかけになる。変に悲しすぎても執着を生んでしまい,どこにも行けなくなる。
・対人関係を冷静に見られるのは僕の場合,12月とか1月からの気がする。コミュニティに存在する合わない人,嫌な奴を「嫌いだ」と認識したままと共に過ごすのは大きなストレスだから,僕はあまり考えないようにしている。「あの人はああいうところが合わないけれど,ここは尊敬できる」みたいな部分があると,よりやりやすい。
・「コミュニティを離れた後も,積極的に(プライベートでも)会いたいか」という軸が生まれることが大きい。「一緒にいなくてもいい」は大きな安心材料。)
・だから,別れを控えた3月前の12月,1月からの対人関係に対する考えは,最後の総合評価なのだと思う。あくまで暫定(人生は暫定の連続)だが,この暫定は半分冷凍される。
・SNSなどのテクノロジーが人との別れを変えているけれど,そこには「zoom飲みでは満たされない何か」と同じ問題が残っていると思う(落合陽一氏曰く「質量への憧憬」。)
・withコロナ初期によく聞いた「近くのものはより近くに,遠くのものはより遠くに」というフレーズを思い出す。(確かこのフレーズはソーシャルディスタンス(フィジカルディスタンス)が及ぼす人間関係の変化を表現するものだった気がする。
この点を線につなぐだけの構成力がほしい,つけることが今年の目標のひとつっす。)