死神論(持論であって主張ではない)
持論がある。(主張ではない)
結論から言うと、その日の朝を素直に迎え入れ、当たり前に過ごし、当たり前に夜(寝る時間)になれば眠ることが長生きの秘訣だ、という話だ。
つまり翌日以降に大きな希望を持たず、どんな過ごし方でも構わないからその日一日をとにかく過ごす。
「持たず」と言ってしまうと「持つこと」を否定しているように聞こえるが、「未来に希望を持つことを意識」するより「その日を過ごすこと、過ごせたことを意識」した方がいいのではないかということだ。
そしてキリのいいところで振り返り、ああ今日も一日終わった、何とか今週も終わった、半月過ぎた、今月も終わった、気が付けば半年、今年も早かったと、どこでもいいので「今生きていることを実感」する。
誤解しないでいただきたいのは、これは神や仏に感謝するということではない。自分自身に対して「今も生きている」と認識するということだ。
これは年に数回ある、祖母とのやり取りで気付いたことが切っ掛けである。
「元気にしてる?」と声を掛けると「いやいや、あちこち(体が)痛いけどね、毎日何とか過ごしとるよ」と元気そうな声が返ってくる。大正生まれの九十代後半だ。
「毎日何とか過ごしているよ」の「毎日」という言葉が自然と出るということが重要だと考える。
私から電話を掛ける時期もほぼ決まっているが、
「電話が掛かってくるのを・・・」「会えるのを・・・」「この日が来るのを・・・」「・・・(指折り)待っていたよ」とはあまり聞いたことがない。
例えば会いに行く場合でも、「いつ着くのかと待っとったよ」と言われるのでやはり「日単位」なのだろうなと推測している。
「お年寄りだから」と片付けてしまえばそれまでだが「とにかく訪れる毎日をただただ生きる」。毎日のルーティーンがあるかもしれないし、無いかもしれないが、すなわち具体的にいつまで生きたいという願望を持っていないのではないだろうか。
もちろん漠然と死の恐怖はあるかもしれない。伴侶に先立たれ、途方に暮れたこともあっただろうがそれでも絶望せず、とにかくその日その日を生きてきた結果がこの二十数年なのではないかと思える。
どこかで「十分生きた。後悔は無い」と考えているのかもしれない。
ここでやっと本題の死神論だが、これはあくまで持論であり、重ねて言うが主張ではない。
もし死神が存在するなら、死神は人から「生を奪う者」と単純に考えてみようと思う。さらにその死神に「欲求や感情」があり、しかも「意地悪」だとするならどうだろうか。
例える理由は「奪う」のであればやはり目的があるだろうと考えるからだ。果たして「いつ死んでも構わない」と考えている、もしくはそれすら考えない「死を意識していない人」から「生」を奪って欲求は満たされるだろうか。
不謹慎と言われるかもしれないが、フィクションであれノンフィクションであっても「人生これから」という「希望を持った人」の不治の病や不慮の事故などが取り沙汰され、人々の印象に強く残ると個人差はあれど「恐怖」も植え付けられる。だからその時だけでも「この先悔い無く生きよう」と人々は考える。
ただ、ここで少し差が生まれるように思うのである。
例えば「半年後に楽しみな○○があるからそれまでは生きていたいな」と考える人と、「明日から一日一日大事に生きていこう」と考える人がいる場合である。もちろん考え方は二分されるわけではない。あくまで比較対象としての二つの考えだ。
死神はどちらに近づくだろうか。
またこれは実体験なのだが、数年前に癌で亡くなった私の父は癌治療の際、来年の正月も今年の正月(癌は未発見だった)と同じように孫と一緒に楽しく外食できることを望んでいた。8か月間闘病したが、12月に容体が急変し大晦日の数日前に息を引き取った。
祖父は老衰だったが、亡くなる少し前に「21世紀は迎えたいな」と言っていたようだが2000年に亡くなっている。
叔父も癌治療で入院していたが、最期は自宅で迎えたいと自宅療養への準備の矢先、誤嚥性肺炎で亡くなった。
「残念だった」「運が無かった」「偶然が重なっただけ」「ジンクスのようなもの」と言ってしまえばそれまでである。
長々と書いてしまったが、「いついつまで生きたい」と「強く」未来に希望を持つことは否定しない。
ただ、ある意味「生きる期間」を自分で決めてしまうような、つい「弱気」な(最小限の)願いを持ってしまうと、意地の悪い死神を呼び寄せ、その少し手前で「望み」を断ち切られるのではないかと思うところである。
〈これは持論であり「愚説」とご容赦いただきたくお願い申し上げます〉
失敗も成功も、成長のある・無しも構わない。一日をとにかく生きる。
例えはあまり良くないが、一生懸命ではなく一所懸命である。