東京の大御所コント職人に、なぜコントを続けるのか聞いてみました。
東京の大御所コンビ「チャーリーカンパニー」をご存じでしょうか?
むかし、「笑点」や「笑いがいちばん」などの演芸番組に出演し、神経質そうなツッコミを入れる日高のぼるさんと、とぼけたキャラで屁理屈ボケをかます日高てんさんによるコンビで、東京の芸人さんにしか出せないような雰囲気や味わい深さが魅力的でした。
そんなお二人を久しぶりにお見かけしたのがYouTube。「チャリカンnetTV」というチャンネルを開設していて、そこでコントあり、トークあり、歌ありのコンテンツを配信していて、お笑い好きには必見の内容だったのですが……そこには、のぼるさんとてんさんとは違う、高橋テツさんと菊地仁さんのお二人が、「チャーリーカンパニー」を演じていました。
「AKB48」を代表するアイドルグループや、プロのアスリートチームであれば、どんどんメンバーが入れ替わることはあっても、お笑いグループでは稀なことです。なぜそんな状況になってしまったのか、その理由を知りたくて、毎回お世話になっている「よろず〜ニュース」さんで取材を申し込んだところ快くお受けいただきました。今回、その記事では詳細にご紹介できなかった、オリジナルメンバー不在のままコンビを続ける理由や、「初代チャーリーカンパニー」に対する思い、そして今後の展望について伺いました。
◆「チャリカン」ブランドを途絶えさせてはいけない。
取材にご協力いただいた高橋テツさん
───今回、取材をお受けいただいてうれしかったです。企画書に、オリジナルメンバー総入れ替えでコンビを続けていることを「AKB48のようなスタイルで〜」と書いてしまったので、もしかすると怒られるんじゃないかと戦々恐々としていました。私は真剣にそう思ったのですが、人によっては悪ふざけに思われるんじゃないかと。
高橋テツさん(以下、高橋と表記)いえいえ。この取材を受けることになって、まわりの人たちに話をしたんですが、ウケてましたよ(笑)。自分としては、まったくそんな感覚は無かったんで、そう捉える人もいるんだって。
───安心しました(笑)。ほんとうに、YouTubeで最初に観たときは衝撃的でした。子どもの頃に見ていたお二人じゃない方々が、「チャーリーカンパニー」としてコントを演じられていたので。すぐにインターネットで調べて、のぼるさんが2010年頃に脱退されていたことを知りました。
高橋 のぼるさんが体調を崩されましてね。私は、お二人が所属する事務所の代表とマネージャーもやっていたので、コンビをどうしようかといろいろと悩んだんですが、「このコンビを無くしちゃいけない」って思って、新しいメンバーを入れてコンビを継続させることにしたんです。
───それが、菊地仁さんですよね。菊地さんは、どういう経緯でメンバーに?
高橋 あの頃は、「チャーリーカンパニー」のお二人はコンビだけではなくて、お芝居の方にも力を入れている時期でした。当然、喜劇ですけどね。そのときに、いっしょに舞台に立っていた役者で、お笑いにも興味があるっていうんで、声を掛けたら「ぜひ、やりたいです」っていうことになって、お願いしようと。
───それで、第二期「チャーリーカンパニー」としてコンビ活動を続けておられたのに、なぜてんさんはコンビを脱退することになったんですか?
高橋 てんさんも体調を崩されたんですよ。2019年の終わりぐらいだったかな。その兆候は以前からあって、新ネタをぜんぜん作れないとか、舞台でも「あれ?」って思うところもあって、いよいよ芸能活動を休止しないといけない状態になって。リハビリをして復帰しようとがんばっているんですが、その間、コンビ活動を休止させるわけにはいかないので、だったら俺がやろうと(笑)。芸人の経験もあるしと。
───その決断がすごいですよね。なかなか、事務所の社長がコンビのメンバーになろうっていう考えにはならないと思うんですが、なぜそこまで思い入れがあるんですか?
高橋 さっきも申し上げたように、「チャーリーカンパニー」のブランドを残したいという気持ちだけですね。もっと具体的に言うと、初代「チャーリーカンパニー」の後期は、ちょっと文学的なコントが多くなっていて、それを継承しなければいけないと。例えば、コントのやりとりで、賞味期限っていうキーワードが出ると、ノーベル賞をとったアフリカのワンガリ・マータイさんを持ち出して「モッタイナイ」という話をしてみたりとか、食料問題を話したりと、面白いだけじゃないメッセージ性があったんですよね。
───そのコントは知りませんでした。失礼なのですが、そうした笑いはテレビや舞台では受け入れられたんでしょうか。
高橋 舞台では変わりなくウケていましたよ。ただ、テレビの方はね、やっぱり面白い方に意識が強くなるから、とある制作の方に「あんまりメッセージ性はいらないんじゃない?」って言われたこともありますよ。でも、個性という意味では、そういう笑いがあっても良いし、ぼく自身がその笑いのファンだったんで、どうしてもそれを残したいと思ったんですよ。
◆ジャズから笑いの世界へ。ライバルは「浅草キッド」。
高橋さんが組んでいたお笑いコンビ「幻楽団」
───「チャーリーカンパニー」さんと出会うまでのお話を教えていただけますか?
高橋 もともとね、私はジャズのトロンボーン吹きで「豊岡豊&スイングフェイス」というビッグバンドに所属して、「紅白歌合戦」とか歌謡番組で演奏をしていたんですよ。そのときに、テレビの収録ってなにかと空き時間があるんで、暇を持て余した豊岡さんが「おい、高橋。なんかやれ」っていつもお声が掛かるんです。当時は、若かったですし、必死でその注文に答えなきゃいけないと思って、トロンボーンを使っていろいろな芸をやってたんですが、ついに限界を感じましてね(笑)。もう一人いたトロンボーン吹きを誘って、二人掛かりで芸を披露するようになったんですよ。
───ちなみに、そのときはどのような芸をされていたんですか?
高橋 たくさんやりましたよ。トロンボーンの上にビーチボールを乗せて吹くとか、楽器をバラバラにして吹くとか。あと、二人羽織にして演奏してみるとか、とにかくいろいろやりましたね。それが意外にウケたんで、その二人でジャズのトロンボーンライブをやったんですね。音楽とトークで、笑いを織り交ぜたような。
───ジャズマンなのに、笑いを含んだライブをやるっていうことには抵抗はなかったのですか?
高橋 やっぱり、むかしから冗談音楽なんかが好きでしたしね。それで、かなりライブも好評だったんですよ。で、あるときテレビ収録で、新人歌手のマネージャーさんとお話をしているときに、名刺代わりじゃないけど、そのライブを撮影したビデオを「こんなことやってるんですよ」って貸したんですよ。すると、すぐにその人から電話がきて、「お笑いをやらないか」って。聞いたらその人は、漫才師の「星セント・ルイス」さんのマネージャーだった人でね、かなり情熱的に口説かれて。年齢も28歳ぐらいだったんですが、やってみようかと。
───音楽には未練のようなものはなかったんですか?
高橋 まったく、ではないですよ。ただ、時代はちょうど平成に入る前あたりで、バンドのニーズが下がっている時期でね。それと何より、あの人気漫才師が所属する事務所の方が言うんだったら、「イケるんじゃないか」っていう熱い気持ちの方が強くなりまして。それで、「幻楽団(げんがくだん)」っていう名前でコンビをスタートさせると、トロンボーンで演芸をやる人がいなかった珍しさもあって、かなり早い時期からいろいろとお仕事をさせてもらいましたね。
───同期芸人でいうと、どういう方々がいらっしゃったんですか?
高橋 うーん、だいだい同じ時期にいたのが、いまは俳優をやっている田口浩正さんがいた「テンション」と「だるま食堂」ですか。あと、西川きよしさんが司会をしていた時代の「ザ・テレビ演芸」(テレビ朝日)に出演した時に対戦した「浅草キッド」もそうですね。結果は、3対2でぼくらが負けました。
───かなり良いところまで追い込んだんですね?
高橋 ぼくらもそう思ったんですが、「浅草キッド」は8週目の挑戦だから、8本目のネタで、ぼくらは1本目ですからね。そう考えると、やっぱり二人はすげぇんだなって。
───よく考えると、「星セントルイス」さんの事務所にいらっしゃったということは、「セントルイス」VS「ツービート」という偉大な先輩を持つコンビ対決っていう見方もできると思うので、多少は意気込んで挑戦されたのですか?
高橋 それは、ぜんぜん意識してなかったですね(笑)。そういえば当時、とある演芸評論家の方がスポーツ新聞にそういうような記事を書いていただいたような覚えがありますね。
───そうした活動をしている中で、「チャーリーカンパニー」のお二人と出会われたのですか?
高橋 そうじゃなくて、お二人は同じ事務所の先輩だったんですよ。その事務所は、「星セントルイス」「チャーリーカンパニー」「幻楽団」の3組が正式な所属芸人で、営業になるとこのメンバーで動いていたので、自然とお二人とも仲良くなっていった流れですよ。
◆「チャリカン」のために、事務所を設立。
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