「中島らもさんのヘルハウスは、インテリと文学青年崩れの集まりでした」─『底辺漫画家』PRインタビュー:西尾融さん編
制作のお手伝いをした書籍『底辺漫画家 超ヤバ実話』(青志社)が24年4月20日に発売されました。書店には、もう並んでいるように思います。
その出版を記念し、「底辺」をキーワードにしたインタビュー記事を不定期に配信していきます。テーマがテーマなので、どれくらいの人にご協力いただけるか不安ですが……今回は、フリーライターの西尾融さんにお話を聞きました。
若かりし頃、関西が誇るパンク系文化人の中島らもさんと交友を持ち、兵庫県・宝塚市にあったらもさんの自宅「ヘルハウス」にも出入りしていたという西尾さん。80年代からライター活動をスタートさせ、知る人ぞ知る、ライター・編集者の青山正明さんらと出会い、「鬼畜系」を標ぼうするメディアの書き手でもあったそうです。経歴から凄まじい雰囲気が漂う、西尾さんが直面した「底辺」とは──?
■中島らもさんと結び付けたアーティスト
──西尾さんは、学生時代に作家の中島らもさんと出会われたそうですね。どういった経緯か、教えていただけますか?
西尾融さん(以下、西尾):経緯をイチから話すと長いですけど、いいですか?(笑)。音楽雑誌の『ROCKIN'ON』(ロッキング・オン社)ってあるでしょ? あれが創刊されてから間もない頃は、同人誌みたいな感じだったんですよ。そこの会員組織に登録すると、個人情報が厳しい今の時代では信じられないけれど、登録者の名簿が送られてくるんですよ。まぁ、早い話が「近くにいる人と勝手に仲良くしてください」という感じで。
──会員の自宅住所の束が送られてくるんですか?
西尾:今じゃ、信じられないけどね(笑)。そのとき、山口県に暮らす人から連絡があって。ぼくは、岡山だったから。何度かやり取りして会ってみたら、中学校から不登校になって学校には行ってないと。それで、生き様とか話す内容がとにかく面白かった。その人が、サイケデリック・ロックバンド「腐っていくテレパシーズ」で知られる、角谷(美知夫)君でした。
──そこに、繋がっていくんですね。
西尾:出会ったのが、14歳ぐらいですか。それから、しばらく経って、ぼくは音楽好きだったので、20歳のときに京都の京一会館というところで行われた、オールナイトのパンク、ニューウェーブ・フェスみたいなのを観に行ったら……そこに、角谷君と中島らもさんがいっしょにいたんですよ(笑)。で、お互いに「おぉ〜」って偶然の再会を喜んでね。らもさんも、ああいう人だから「うちに、おいでぇや」ということになって、兵庫県・宝塚市にあった自宅にお邪魔にするっていう。それが、らもさんファンの間では有名な「ヘルハウス」だったんです。
──当時のらもさんは、作家になる前ですよね?
西尾:そうですね。あとから、話を聞くと、無職の時代でコピーライター講座に通ってるって言ってましたね。
──失礼な質問ですが、そういう人に誘われて、怖くなかったんですか?
西尾:それは、なかったですよ。角谷君の知り合いだし、何より、出会いから面白かった。らもさんの自宅へ向かう途中の電車の中で、みんなで寸劇のようなことをはじめるんですよ。コントみたいな感じの。仕方がないんでぼくも他の乗客に話しかけたりしたことを覚えてます(笑)。
──最初から気があったんですね(笑)。当時、1980年頃の「ヘルハウス」は、どんな様子だったのですか?
西尾:だいたい4〜5人ぐらいが溜まっているというか。牢名主みたいな感じでいたのが、後に『中島らも烈伝』(河出書房新社)を書いた、フランス文学者の鈴木創士さん。東京に住んでいるのに、しょっちゅう顔を出していた角谷君。あと、ぼくのような存在として、どこかで出会った女子大生なんかも来ていました。
──そこで、皆さんは悪い遊びを……?
西尾:そちらばっかりを取り上げられますが、当時はインテリとか文学青年くずれみたいな人たちが集まってましたから、フランス幻想文学の話とか、好きな音楽の話をしながらお酒を飲んで過ごすっていうのが大半でした。あとは、風邪薬を飲んで遊んだり、ゴロゴロしたりね。そんな感じでしたね。
──後年、自宅に集まっていた人たちと「◯◯◯◯パーティー」をしていたという話もありますが?
西尾:それは、かなり後になってからでしょうね、ぼくは参加したことも見たこともないですよ。そこに、参加していたとある方から「実はね……奥様と‥…」ってこっそり聞いて「え?!」って驚いた記憶があるぐらいですから。
──では、合法ドラッグは別にして、カルチャーの話をしたりまったりと過ごす平穏な感じだったのですね?
西尾:そうですね。らもさんの奥さんの美代子さんも気さくで明るくて。今から思えば、大変だったと思いますよ、収入が途絶えた家計を支えながら、数人分の食事の用意をしてくれていましたから。そういえば、たまに美代子さんのご家族が料理を持ってくることもありましたね。当時は若かったから何も考えず、「どうも、すみません。ありがとうございます」って普通に恩恵にあずかっていましたが……図々しい連中だったと思います(笑)。
──皆さん、若いし健全ですね(笑)。
西尾:唯一、問題だったのが、頻繁に出入りしていた男の子が、万引きの常習犯で、中島邸から出かけて行って帰ってきたら、「らも君、今日はこんなもんを盗んだよ」とか言って盗品をみせるんですよ。それで、らもさんは「そんなことしてたら、うちが窃盗犯のアジトだと思われるんで勘弁してくれ」って困ってました。
──そんな方もいらっしゃったのですか……。結局、どれくらいヘルハウスにはおられたのですか?
西尾:さいしょに滞在したのが半月ぐらいですか。あとは、角谷君に会うことになると、そこに寄るっていう感じで。
──晩年のらもさんとのお付き合いは?
西尾:企業のPR誌でらもさんを取材したのが最後ですね。10数年ぶりだったのですが、やっぱり角谷君の印象が強かったせいか、ちゃんとぼくのことを覚えていましたね。さいしょに出会った頃は、頭の回転がすごくて、しゃべりも速かったんですよ、さすが作家になる人は違うなっていうか。でも、その頃はアルコールのせいもあって、ものすごくスローでね。違いはそれだけ。あとは、当時の懐かしい話を少しするっていう感じでした。それから、数年後に亡くなっちゃいましたが。
■「鬼畜系ライター」青山正明
──「ヘルハウス」にいらっしゃる頃から、ライターの活動はされていたのですか?
西尾:いえ、名古屋の大学を卒業してからですね。すぐに就職せずに、フリーターのような生活をしながら、ブラブラとしていたんです。そのとき、地元の友人がライターの仕事をしていて、誘われるままに書く仕事を手掛けるようになったという感じです。だから、23、4歳ぐらいからですか。
──岡山県の雑誌などで活動を?
西尾:地元で発行されている求人情報誌のカルチャーページです。当時から、音楽や文学が好きだったんで、そちらの方面で仕事をしていました。それからしばらくすると、地元にある広告制作会社に声を掛けられて、そこへ入社するんですよ。肩書きはコピーライターでした。バブル経済に突入する直前で、とにかく不動産関係が絶好調でしたから、そのパンフレットやチラシの文章を書いたり、販促用企画なんかも考えたりしてましたよ。
──かなり大手の会社だったんですか?
西尾:とはいっても、制作会社ですから。でも、電通や大広がお得意様にいましたから、規模感の大きな案件も多かったですね。
──その後の執筆活動から考えると、会社員生活は息が詰まるような感じもするのですが?
西尾:そんなこともないですよ。仕事自体はたくさんあって、夜中近くまで仕事をすることはザラでした。その代わり、会社終わりに飲みに行くお金はぜんぶ、会社が出してくれる決まりがあって(笑)。だから、思いっきり働いた分、思いっきり飲んで発散していました、会社のカネでね。
──広告の世界と、その後に出会うサブカルチャーの世界とは距離があるように思うのですが、どこで接点が生まれるのですか?
西尾:出会いは、飲み会か何かだったと思うのですが、松下さんという方に「新しい海外情報誌を、いっしょに作りませんか?」って誘われたんです。ぼくは、大学が名古屋で、東京や大阪にも知り合いがいたから、何かと便利だと思われたんでしょう。
──松下さんとは、どういう方なのですか?
西尾:立教大学の学生で『セントポールス・プレス』という学生新聞に関わったり、『モダーン』というインタビューを中心としたミニコミ誌を創刊したという話です。とにかく、その人が電話営業(※電話で営業を掛けて、テキストなどを販売する仕事)でひと儲けしたから、何か新しいことをやろうって。名古屋に本社を持つ会社を親会社に、新雑誌を創刊すると。雑誌名は『エキセントリック』。松下さんが編集長で、あとは求人で編集経験のない人たちも集め、名古屋に編集部を構えてスタートしました。
──“特殊海外旅行誌”と銘打たれたその雑誌は、当時流行していた海外旅行雑誌とは異なる内容だったそうですね。どのような内容だったのですか?
西尾:創刊号の特集が「ニューヨークの興亡」ですから(笑)。松下さんの知り合いだった日本のノイズ・シーンの草分け的存在の秋田昌美さんが現場取材を担当。映像作家で詩人のジョナス・メカスなんかにインタビューをしています。コンセプトの軸にあったのは、当時流行していたサイバーカルチャーを笑いながら紹介するっていう。今考えても、よくそんなこと思いついたなって。
──創刊号は売れたんですか?
西尾:売れてないでしょう、同人誌みたいなもんだから。結局、全国の書店で販売するために必要な取次との契約ができなかったから、手売りといっしょです。雑誌のコードが取れなかった。
──じゃあ、給与の方は?
西尾:いちおう、編集部と契約するような形で、1号をつくる度にお金をもらうっていう。でも、さいしょの一年間はバタバタとしながら制作をしていたので、あんまりそこは気にしていなかったですね。給与制になったのは、編集部が東京に移って、青山正明さんや吉永嘉明さんらが加わった頃ですよ。
──いよいよ、ここで青山さんたちとの接点が生まれるのですね。青山さんとは、さいしょどのような形でお会いになられたのですか?
西尾:先に申し上げた秋田(昌美)さん経由で、当時『産業と株式』(プリントワン)っていう株式情報誌にいた、青山さんを紹介してもらったんです。ぼくは以前から、青山さんらが手がけたキャンパスマガジン『突然変異』の存在や、作家の椎名誠に挑戦状を叩きつけたことも知っていました。だから、ふらっと登場されたときは、「これが、青山正明か!」って思いましたよ。
──青山さんは、どのような印象でしたか?
西尾:それが、拍子抜けするぐらい普通というか、まっとうな社会人っていうか。会社帰りに寄ってもらったんですが、ちゃんとスーツを着て、しっかりとお話をする人でした。当時、その株式の雑誌で仕事をしながら、いろいろな媒体でも執筆をされていて、業界内では“知る人ぞ知る存在”でしたね。
──まったく鬼畜系の片鱗は見えなかった?
西尾:えぇ。その後、いっしょに『エキセントリック』をつくることになる、白夜書房の編集者だった吉永(嘉明)さんや門脇(秀臣)さんの方が、よっぽどチンピラというかカタギじゃない雰囲気はありました(笑)。それは、媒体のカラーもあるのかもしれませんが。
──それにしても、他の雑誌でお仕事をしていた三人が、よくも、雑誌コードをもたない雑誌「エキセントリック」の制作に参加してくれましたね? よほど、熱くアプローチをされたんでしょうか。
西尾:それは、松下さんですね。あの人はもうすごくて……。「給与も倍々ゲームで増えていって、来年には大変なことになりますよ」って(笑)。結局、三人が制作に参加するようになってから1年も持たなかったですから。給与も、30万もなかったはずですよ、20何万か。生々しい数字ですけど(笑)。
──20何万ですか(笑)。それで、倍々ゲームでお金が増えないとなると、辛いものはありますね。
西尾:だけど、ぼくも含めてみなさんは、他でも原稿を書いてましたから。とくに、青山さんは土日も潰して自宅で原稿をやるぐらい忙しかったはずなので、かなり良い収入だったと思います。
■受験雑誌から「危ないライター」に
──今はもう、よほど予算を潤沢にかける広告案件や専門雑誌なら別ですが、雑誌の取材で海外へ行くっていうのは贅沢ですよね。毎号、皆さんで取材へ?
西尾:最初の頃は、特集を担当する編集者が、コーディネーター兼ライターを雇って、現地で取材をするっていうスタイルを取っていました。今では有名になったクリエイターもチラホラいて、最新情報に精通し目端が利く分、面倒な部分もありました。お金にうるさいとかね(笑)。だから、最後の方は、編集担当だけで行って、現地でコーディネーターを雇うっていうスタイルでやってましたね。
──その頃、もっとも印象に残っていることは?
西尾:うーん……。隣の席が青山さんだったので、好きな音楽や文学の話をしたことや、世代が近かったので皆でクラブへ行ったりとか。あと、廃刊が決まったときに、編集部4人と、青山さんの奥さん、デザイナーの6人でタイのバンコクへ記念の旅行に出かけたんです。これは、その後、笑い話となったのですが、ぼくはタバコが吸えないので、タバコ状の違法なものもからっしきダメなんですね。すると、青山さんの奥さんが「私もさいしょはダメだったの。でも、何度もやってるうちに気持ちよくなるから。特訓よ!」って、何度もホテルの部屋で練習させられてね(笑)。結局、過呼吸で意識が遠くなったのか、違法なタバコ状の効果なのか、フラフラして、ほかの連中に大笑いされたことがあります。こういうことを言うと、「やっぱり、危ない連中だ」なんて言われるかもしれないけど、当時の出版業界って、そういう感じだったんです。世間でこれから流行しそうになるものを前もって、まずは自分でやってみる。面白かったらハマる。抜け出せずに、どこかに行っちゃう人もいるけど……そういう雰囲気だったんですよ。
──結局、『エキセントリック』が廃刊となり、つぎに受験雑誌『Toru』……(笑)。どういう経緯で、そんなお仕事をすることになったのですか?
西尾:あれは、“インターネット史上最悪のゴシップマガジン”として注目されたメールマガジン『サイバッチ』を創刊した、毒島雷太君が持ち掛けてきたんです。「第一学習社という会社で、月収は40万を確保した」という話でした。さいしょは、ちょっとうさんくさい感じもしたんですが……。せっかく、同世代で4人のライター編集者が集まったんだから、廃刊と同時に解散するのはもったいないっていうことで。第一学習社の支社がある、千代田区二番町で働きはじめることになったんです。もう、受験雑誌の編集経験がないぼくらは、見様見真似で。
──企画内容は覚えていますか?
西尾:月に4冊出すんですよ。高1、高2、高3は志望校別に2冊で合計4冊。それぞれ、学齢ごとに担当が分かれていて、ぼくと吉永さんは高3担当。青山さんは高1だったかな。青山さんは、受験勉強マニアみたいなところがあるから喜々としてやってました。「おれも昔は高校生だった」というインタビュー企画で、サブカル漫画家の山野一さんに登場してもらったり。あと、巻頭特集で「頭がよくなるグッズ」をやったり。ほかのページは、真面目に問題や解説を作らないといけないし、監修者の先生のチェックを受けるから大変なんですよね。その分、そういうところで遊んでいました。
──山野一さんが登場するところに、その後のサブカルチャーの流れを感じますね。
西尾:つながりという意味では、そうですね。青山さんも、頭がよくなるという企画はそれから何度かやっていますし。あと、山野さんの奥様だった、ねこぢるさんがイラストレーターとしてデビューされたのも、この雑誌でした。
──時系列で言いますと、それから数年ほど後に、青山さんたちは「東京公司」を名乗り、宝島やデータハウスで次々と話題になる書籍やムック本を手がけられます。西尾さんは、この直前に抜けられているのですね?
西尾:結局、1年半ぐらいですね、いっしょに『Toru』を作っていたのは。途中で、「東京公司」という名前が出て、青山さんを中心に、このグループを法人にするとか、新しい仕事を取ってこようとか、色々と動き回っていたんです。でも、ぼくはその後、メンバーからは抜けることになりました。
──それは、なぜですか?
西尾:簡単に言うと、ほかの人達があまり仕事をやらなくなったんですよ(笑)。ライターとして売れてきた時期だったから、受験雑誌以外にも手を取られる。そうなると、どんどんぼくの負担が増えてくる。たまに、顔を合わせたときに、ちゃんと作業を分担しようってお願いすると、「ごめんごめん。今月はちゃんとやります」って調子の良いことを言ったあとに、また事務所に顔を出さない。さすがに、疲弊してきたんでね。「親の農家の手伝いをしないといけないから……」とか適当に理由を付けて、岡山に拠点を移したんです。
──その見極めも潔いですよね。それから、しばらくして、青山さんを中心に「鬼畜系」を標ぼうして注目を集めますよね。そのことについては、どのように見られていましたか? 青山さん、変わっちゃったなとか。
西尾:近くにいた立場から言うと、正直、昔と比べ、何かが大きく変わったとは思えないんです。もともと、青山さんの中にあったものを表出させたというか。ただ、世間の人たちに「鬼畜の青山」と信じ込ませた、セルフブランディングの力はすごいと思いますよ。
──だから、西尾さんはそういった鬼畜の仕事を拒絶せずに、「東京公司」から抜けた後も、お仕事としては続いていたんですね。データハウスから出ていた『危ない1号』にも寄稿されています。
西尾:吉永さんと懇意にしていたので、そのつながりでお仕事をしていました。だから、青山さんが体調を崩されて仕事をしなくなってからは、吉永さんが一人で「ジャム工房」を名乗って編集仕事をするようになり、ぼくがコアマガジンの『BURST』に原稿を書くようになったのも、それが理由です。
──具体的に、どういうお仕事をされていたのですか?
西尾:「BURST」の連載企画「Wonderful Trance Life」や書籍『Psychedelic and Trance』(コアマガジン)などを一緒にやったりしてましたね。合法ドラッグに関する記事で言うと、自宅に郵送で送られてくるんですよ、岡山に。
──合法のドラッグが?
西尾:えぇ。それを実際に体験して記事を書くとか。でも、所詮は合法ですから、効き目は大したことはなくて、気分が悪くなって、最後にちょっと「いいかな?」と思う程度です。
──でも、もし命に関わることになったらどうされるんですか?
西尾:それは、自己責任って思ってましたから(笑)。
──すごい、感覚でお仕事をされていたんですね! ちなみに、青山さんと比べ、吉永さんはどういう方なのですか?
西尾:飛鳥新社から出た『自殺されちゃった僕』のような誠実で弱々しい感じではない。あ、でも妙に生真面目なところがあって、ぼくがBURSTの原稿にサルビアの効果を誇張して書いたら、吉永さんは早速試してみたようで、「効かないじゃないですか!大げさに書かないでください。僕はドラッグの記事には誠実でいたいんです」と怒られたことがありました。
──ライターとして裏側は知ってそうな気もするのですが、そういうところはシャレが通じない。
西尾:ぼくにとっては、愛されキャラというか天然っぽい面白い部分の印象が強い(笑)。人によって印象も異なると思いますが。あと、口癖のように「IQが高い」「IQが低い」と言っていて、主に音楽や本、映画などの評価に使われるのですが、IQの高いドラッグ本の代表として中島らもさんの『アマリタ・パンセリナ』を挙げていました。
──『自殺〜』は、絶版になった今も読まれ続けているようです。西尾さんから見て、内容はいかがでしたか?
西尾:当時、レストランで開かれた出版パーティーに参加したり、本人に本の感想を少し伝えたこともありますが、本当のところだけは語れませんでした。ぼくは、吉永さんとの奥様とも懇意にしていたので余計に思うんですが、吉永さんは自分自身を美化し過ぎているところもあるのかなと。ひとつだけ例を挙げると、奥様が非合法な遊びをするようになったのは、吉永さんの影響です。それも要因のひとつとなり、精神が不安定になった。その事実を棚上げして「自殺されて、さみしい」っていうのは……。もちろん、本人には伝えられなかったですけど。
──確かに、自らで原因を作り出したところに、疑問は残りますね。
西尾:もちろん、当時の精神状態も関係するとは思います。そうしたことも鑑みて、理由は伝えないようにしました。
──では、90年代は吉永さんたちから依頼されるお仕事を中心に、危ないライターとして活動をされていたのですね。
西尾:いえいえ。当時は、岡山在住でFAXでのやりとりでしょ。そんなパッと現場に取材へ出かけられるわけでもないので、月に数本やるとか、その程度ですよ。あとは、地元で企業関連の仕事を中心にやっていました。
──まさか、企業で代表者インタビューにきたライターが、『BURST』で仕事をしてるとは想像もしていなかったでしょうね。
西尾:そんなライターのことなんて調べないんじゃないですかね。今まで、それを理由に仕事がなくなったという経験はないですから。
■岡山を拠点に再び危ない仕事も……
──「東京公司」で仕事をしていた方々は、青山さんは亡くなり、吉永さんも所在が不明。西尾さんだけが、今も現役で仕事をされているのですね。
西尾:そう思うと不思議なんですよね。還暦もとっくに過ぎていますし。まぁ、岡山は都心と比べて、新規参入も少ないから何とかやっていけているんでしょうね。最近も変わらず、企業のPRや社史の制作、地元の観光系の仕事なんかも手がけています。
──変な質問なのですが、ある時期、過激な仕事をされてきたので、腕がうずくような、フラストレーションがたまるような感覚はありませんか?
西尾:いや、ぼくは鬼畜じゃないですから(笑)。好きな本を読んだり、音楽を聴いたりしていれば、それで幸せなんですよ。年齢も年齢ですし、若い頃のように無茶はできない分、自分ができる範囲で書く仕事を続けられたいいなっていう。まぁ、まわりを見たら、還暦を過ぎた書き手がたくさんがんばっていますので、まだまだ仕事は続けられると思いますけど。
──西尾さんの人生をざっと聞くと、基本的には「底辺」であったことは、ほとんどないですよね?(笑)。うまいバランス感覚で、いろんな難局を乗り越えておられる。
西尾:うーん……。ヘルハウスの頃は、底辺ちゃ、底辺ですよね。
──人生のものすごい最初じゃないですか(笑)。それ以降は、経済的に破綻することもなく、壮絶な体験をすることもなく……?
西尾:真面目にお話をすると、吉永さんが重度のうつになった頃は、周囲の人たちと連絡を取り合ってサポートをしていたんです。ぼくも、失踪する数ヶ月ぐらいまで電話でお話をして、ちょっとは気を紛らわせようとか。ずっといっしょに過ごした仕事仲間ですからね。それなのに、一言もなくパッと消えちゃったことが、ちょっと信じられなくて。当時、お付き合いのあった人たちに話を聞くと、「どこかに必ずいる」っていう確信を持っているように感じました。ぼくにとって、吉永さんのいまを知ることは、そっち方面の最後の仕事になるのかもしれない。
──私も、吉永さんの所在については、とても気になるところではあります。
西尾:せっかく岡山で、安定した仕事をしていますからね、そっちに足を突っ込んで、ほかの東京公司のメンバーみたいになっちゃう可能性もあるかもしれない。私にも家族がいますから、慎重に進めないといけないのですが……。ライターさんも興味をお持ちなら、私が助太刀しますよ。もちろん、全責任は橋本さんにとってもらって。それだったら、やりますけどね(笑)。
**お話を聞いた人**
西尾融─Nishio Yu 1961年生まれ
大学卒業後、地元岡山でライター活動を開始。岡山に拠点を構える広告制作会社に入社し、不動産関連のプロモーションツールを作成するコピーライターに。その後、飲み会で知り合った編集者に誘われ、“特殊海外情報誌”と銘打った『エキセントリック』の編集部に所属。ここで、その後、“鬼畜系サブカル”ジャンルで一斉を風靡する青山正明や吉永嘉明と知り合う。活動拠点を岡山に移した後も、雑誌『宝島30』(宝島社)や『危ない1号』(データハウス)のほか、書籍などの執筆も行う。現在は、岡山を中心に企業のPRや観光事業に関する執筆・取材を行っている。