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「ドリフ大爆笑」「ひょうきん族」「夢で逢えたら」「ウリナリ!!」などのコント作家、清水東さんにお話を聞きました。

ぼくは根っからのコント番組フリークなので、世の中から〝番組としてのコント〟が減っていく状況をとても寂しく見ていました。最後にテレビでコント番組が放送されていたのは、『SMAP×SMAP』をはじめ、『サラリーマンNEO』や、松本人志さんが不定期でやっていた番組ぐらいでしょうか。あと、チョコプラさんの番組でもやっているんでしょうか。でも今はもう、過去の総集編の番組ばかりになってしまい、ほとんど新作を見かけることがなくなりました。

世の中からコント番組がなくなってしまうのか。なくなってしまうのなら、その理由は何なのかを知りたくて、ダイヤモンド・オンラインさんで放送作家の清水東さんにお話をお伺いしました。以前、YouTubeだったと思うのですが、放送作家の奥山コーシンさんが「日本でいちばんダンディな放送作家」とおっしゃっていた通り、低音ボイスで、どんな質問をしても、すぐに打ち返してくださるとてもかっこいい方でした。

この誌面でご紹介できなかった話をこちらのnoteでご紹介しようと思い、清水さんにお願いしたところ、快くOKをくださいました! 三谷幸喜さんとのお話が、ぼくはいちばん好きです。


芸能界が身近にあった家庭で育ち、
突然、コント作家へ。

──清水先生の経歴を拝見すると、お父様が偉大なコント作家だった津瀬宏(つせ・ひろし)さんだったということに驚きました。

清水東さん(以下、清水にて表記)テレビ放送が始まった初期から放送作家をやっていて、『シャボン玉ホリデー』とか『ゲバゲバ90分』(共に日本テレビ系列)なんかのコントを書いていたんですよ。

──たまに、そのコント台本を小学校に持っていって読んでいたそうですね。

清水 漫画みたいな感じで、友達といっしょに読むみたいな。でも、親父にそれがバレて、めちゃくちゃ叱られましたけどね。

──そのときから、コント作家というか、テレビ業界に関わろうという気持ちはあったのですか?

清水 いえ、それはなかったですね。だけど、親父に連れられて、芸能人水泳大会の収録を見学に行ったり、ドリフのメンバーと海水浴をしたり。華やかな世界だなって思う程度で。でも、いま考えると嫌なガキですよね(笑)。なかなかそんな子どもはいなかったですから。

──テレビのスターと海水浴なんて、できないですよね(笑)。では、どのタイミングで放送作家になろうと?

清水 本当に偶然なんですよね。親父が、中島らもみたいに酒に酔って階段から落ちて、49歳のときに亡くなったんですよ。当時、ぼくは普通の大学生だったんですが、それがショックで。あまりに落ち込んで、大学にも通わなくなって、ブラブラしてたんですよ。そのとき、友達が外に連れ出してくれて、阿佐ヶ谷の居酒屋で酔っ払って騒いでたら、遠くの席から「お前ら、いい加減に静かにしろ!」って聞こえてね。

──ほかのお客さんに叱られて。

清水 すると、その人がぼくの方を見て、「お前、どっかで見たことある顔だな」って。話をしてみると、親父の葬儀のときに一度だけお会いしていて、その方が放送作家だったんですよ。それで、今の状況をお伝えしたら、その方がテレビ原稿用紙の束を渡してきて、「これにコント書いて、欽ちゃん(萩本欽一)とこに持ってけ」って。

──急展開ですね?

清水 正直、書けるわけないよなって思ったんですが、別にやることもなかったので、見様見真似で書いて持っていったんですよ。そしたら、日本テレビで放送していた『欽ちゃんドラマ・Oh!階段家族!!』で、コント作家として仕事をするようになったんですよね。

──そんなトントン拍子で進むものなんですか?!(笑)

清水 ぼくも、びっくりしましたけどね(笑)。担当したのは、ドラマパートとは別に谷啓さんとか西田敏行さんらが出演するショートコントです。でも、まだ正規の作家じゃないというか、コント台本が採用されたらギャラがいくらっていう方式で。当時、萩本さんの番組で流行った〝バカウケ、ややウケ、どっちらけ〟っていうのがあって、それにならって、バカウケは台本の直しはナシで5000円、ややウケはちょっと直しが入って3000円、どっちらけは採用ナシで0円というギャラ設定でした。

──ちなみに、採用率はどうだったのですか?

清水 一年目の年収が22万円だったから……そこそこ採用されていたんじゃないでしょうか。でもついこの間まで普通の大学生ですから、まわりの先輩たちのように毎週のように面白いネタが思い付かないんですよ。そのときに、先輩から教わったのが電話帳を読むことなんです。

──職業と電話番号が載っているものですよね?

清水 そうそう。萩本さんの笑いは、ボケとツッコミというよりも、設定が大事なんですよ。こういう二人が出会ったら面白いとか、こんなシチュエーションにこの二人が登場したら笑えるとか、そういう感じなんです。だから、電話帳をパラパラとめくって、医者を見たあとに、ガソリンスタンドの店員を見たら、パッと思い付く瞬間があるんです。そんな、ひらめきが湧くまで、パラパラめくって読んで。

──萩本さんから直接アドバイスなども?

清水 適時そういったこともありましたかね。何より、噂通り会議はすごく長いですから(笑)。そっちの方が印象には残っています。

──その流れで言うと、萩本さんの作家集団「パジャマ党」や「シャワー党」に所属されるのですか?

清水 いえ、ぼくはそっちには合流できなかったんで、番組に関わる作家の一人という感じで。それから、ベテランの放送作家だった河野(洋)さんが、コント作家を集めて事務所を作ると聞いて、そっちに入れてもらったんですよ。

──青島幸男さんのお弟子さんですよね。

清水 えぇ。女優の藤田弓子さんの旦那さんでもある方です。その事務所には、マネージャーさんもいらしたんですが、コントを書く仕事なんて、そこら中に転がってるわけじゃないんで、クイズの問題をつくるとか、あんまりぼくにとっては関心が薄い仕事ばっかりくるんですよ。

──では、一時はコントから離れて?

清水 いえ、そういう仕事はあんまりやらずに、先輩の作家さんに頼んで、「なんか書かしてくださいよ」とか言って、お手伝いをして。そのうち、ディレクターさんからコント作家としてお呼びが掛かるっていう感じで、少しずつ広がっていきました。

──ある意味で、下積みというか、修業時代を過ごされたんですね。

清水 気持ちとしては辛いとか、そういうのはなかったけどね。下積みっぽいエピソードで言うと、先輩と飲みに行って、うちの親父のことを知ってる人だと、「お父さんはすごい人だったんだけどな……」とか言われて、「あぁ、すみません」みたいな(笑)。でも、食事はぜんぶごちそうしてくれるし、まぁいいっかって。そんなときもありましたよ。

〝コントの鬼〟たちと出会い、
次々と人気番組を担当する作家に。

──デビューが萩本さんの番組でしたが、その後、「ザ・ドリフターズ」さんと関わるようになるのですね。

清水 『ドリフ大爆笑』(フジテレビ系列)ですよ、関わったのは。ご存知の方も多いですが、あの番組は完全にいかりや(長介)さんが仕切っていらして、コント作家の台本は叩き台みたいな感じです。台本にすっと目を通した後に、ゴミ箱にごそっと捨てて、「……おい、これからなにやるんだよ」って言って、考え込むと長い(笑)。たまに、目をつぶったまま、本当に寝るしね。

──イメージでは、叱り飛ばすような場面もあるんでしょうか?

清水 ありましたね。「だれだ、こんな医者コントを書いた奴は!」って叱り飛ばして、「医者コントっていうのはな……」って解説しながら、自分でアイデアを膨らませるっていうかね。叱られる方が、たまったもんじゃないけど。

──笑いのスタイルとしては、萩本さんとも違いますよね。

清水 萩本さんは、設定が大事なんですが、ドリフは〝フリとオチ〟なんです。刑事と犯人のコントがあったとすると、シリアスな場面がずーっと続いて、緊張感をしっかりと作ってから、実は刑事のような人が犯人で、犯人が刑事だったっていうオチで、ドーンっとひっくり返す。オーソドックスではあるんだけど、どうやってシリアスさを出すか、それをどうオトすかっていうところに知恵を絞らないといけないんですよ。

──いかりやさんご自身が作ったコントもあるんでしょうか?

清水 ぜんぶのコントにいかりやさんの発想は盛り込まれてますけどね。あえて、ひとつ挙げると、会社の設定で、いかりやさんが「不況のあおりを受け、我が社は危機的な状況に直面していましたが、君たちのおかげで窮地を脱しました。だから、ボーナスは出したい。出すつもりだ」って、社員たちに真剣に語りかけた後に、いかりやさんが棒を出すっていう(笑)。

──直球の笑いですね(笑)。

清水 それが、ドリフの基本ですから。

──その後、同時進行で『オレたちひょうきん族』(フジテレビ系列)にも関わるっていうのは、まさにコント師という感じがします。

清水 『ひょうきん族』は、タケちゃんマンを1、2本書かせてもらったぐらいですよ。だから、「ひょうきん族の作家でした」なんていうと、先輩にどやされそうですが(笑)。

──作り込んだ笑いに対して、『ひょうきん族』はアドリブ重視というか。

清水 いちおうは、ストーリーというか流れはあるんだけど、予定調和じゃないところに軸がありましたよね。ハプニングとか、ゲーム企画が入ったりね。時代的にも、〝次は、何が起こるかわからない〟っていうのが求められている印象がありました。

──その流れで、80年代後半に『夢で逢えたら』(フジテレビ)を担当される。

清水 今までは、だいたいどこの現場に行っても演者さんの方が世代は上だったんですが、はじめて同世代に出会ったというか。まだダウンタウンの二人が大阪から東京まで通いで収録にきていた頃で、どういう人達なのか、ぼくらもあんまり知らないんですよ。少し時代は前後するんですが、ダウンタウンが主演で一本だけ、芝居の台本を書いたんです。『ダウンタウンホラー〜大魔神怒る』(TBS)っていう。これ、あまりにも二人のことを知らなかったから、浜田がボケで、松本がツッコミになってるんですよね(笑)。それでも二人は面白くやってくれましたけどね。

──『夢で逢えたら』は、ダウンタウンウッチャンナンチャンも若手なので、作家さんやスタッフの方々の言う通りに演じるような?

清水 いえ、二組も色々と意見は出してくれていましたよ。どちらも、自分たちでネタをつくる人たちなんで、作家が考えたコントを膨らませてくれるというか。あと、スタッフの中に星野淳一郎さんっていう身長が2メートルぐらいある方がいらして、この方がほんとに〝コントの鬼〟みたいな感じでね(笑)。ぼくらより少し下の世代の作家だった、内村宏幸さんとか、高須光聖さんは、夜遅くまで居残りしてコントを書いてました。もう、コント塾みたいな感じですよ。

──高須さんのインタビューで、〝ひとつのテーマでコントを10本書く〟というのがルールになっていて、テーマを3〜4つ振られると、数十本のコントを持っていかないといけないと。

清水 はっきりとは覚えてないんですけど、そういうことは余裕であるでしょうね(笑)。コントが好きだからなんでしょう。今、ワタナベエンターテインメントの代表をやってる吉田(正樹)さんもそうで、コントの鬼だから、とにかく求めるレベルが高いんですよ。だから、一緒に仕事をする作家は、鍛えられるんです。

〝つくりもの〟から〝リアル〟へ。
「ウリナリ!!」で痛感した時代の変わり目。

──『夢で逢えたら』のあとも、ダウンタウンやウッチャンナンチャンとの番組に作家として関わり続けるのですね。

清水 ウンナンは『やるならやらねば』(フジテレビ系列)や、ブラビとかポケビが人気になった『ウリナリ!!』(日本テレビ系列)ですね。〝やるやら〟は、まさにコント番組で、水木しげるさんの『悪魔くん』をパロディにした『ナン魔くん』っていうそれなりに人気があったコントを書いてました。当時は、「なんで、この時代に『悪魔くん』なの?」とか言われたんですが、ナンチャンも乗ってくれてね。ちゃんと、ぼくが書いた台本を膨らませたり、「あの映画の悪役っぽい感じで」みたいなリクエストにも応えてくれて。芸人というか演者としてプロだなって思いました。

──内村さんは、ご自身でもコントを書かれるんですよね?

清水 〝やるやら〟だったかどうか……。はっきりしたことは忘れましたけど、ウッチャンは映画オタクだから。ジャッキー・チェンのパロディコントを自分で書いて持ってくることもありました。

──『ウリナリ!!』では、スタート時にコントコーナーがありましたよね?

清水 誰も覚えてないぐらい一瞬で終わりましたけどね(笑)。アメリカの『サタデー・ナイト・ライブ』みたいな感じのシチュエーションコントをやっていたんですが、イマイチだったんでしょう。作家チームの、おちまさととか、都築宏、中野俊成みたいな企画の申し子みたいな人たちが、どんどん活躍してね。気付いたら、ドキュメントバラエティー番組みたいな感じになってました。90年代後半になった頃には、完全にコントは求められてないって思いました。

──時代は少し遡りますが、コントの要素がない『殿様のフェロモン』にも参加されていますが、それも時代にあわせて活動の幅を増やそうと?

清水 いや、それは関係ないですよ。ディレクターだった片岡(飛鳥)さんに誘われて。とにかく、お笑いが好きだから、こういうバラエティーに関わるのもいいかなと思ったら、変な白衣みたいな服を着せられてね。女の子のスリーサイズが本当かどうかを計測する役割を与えられて、テレビに出演してました(笑)。

──演者としても関わっておられたのですか?! しかも、なかなかハードな役どころですね。

清水 ぼくはあんまり人前が得意じゃないから、あえてテレビの生放送に放り込んだらどうなるか? っていう、イタズラみたいなもんでしょうね。

──時代の変わり目という意味では、『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ系列)も、番組後半はロケが中心でしたよね?

清水 そうそう。だいたい同じぐらいの時期じゃない? 最初はショートコントが中心の番組だったのに、途中からダウンタウンと一緒に仕事をしていた大阪の作家さんたちがチームに参加して。ロケとかゲームが主流の番組になりました。これも、時代の移り変わりを象徴する出来事ですね。

──ちなみに、この番組でのコント会議は、松本人志さんも参加されて?

清水 『夢で逢えたら』の頃もそうだったのかな。松っちゃんもコントの会議に参加していたと思います。でも、権力者みたいに、「松本の言うことは絶対」という感じじゃなくて、作家の書いたコントもやれば、松っちゃんが作ってきたコントもやるような流れだったかな。

──90年代以降、急激にコント番組が減った後、清水さんらコント作家の方々はどういう番組で仕事をされるようになるのですか?

清水 コント番組が無くなる前から、ドラマやアニメの仕事をしていたんですが、そっちの比重が大きくなりました。コントで学んだ〝フリとオチ〟の方法を、そのまま応用しているというか。フリのシリアスな部分でストーリーを繋いでいって、要所ごとにオチを入れていくとか。

──コントで培ったスキルを活かしてシナリオの仕事に軸足を移していかれたと。

清水 例えば、いかりやさんもそうでしたよね。晩年は、シリアスな俳優としてご活躍されていましたが、あれは完全にコントの〝フリ〟の演技ですもんね。同じ作家で言うと、今では演劇界の大御所になっている水谷龍二さんも以前はコント作家でしたから。

コント番組はヴィンテージギターのように
絶滅危惧種の文化として残っていく

──言われてみると、三谷幸喜さんも出発は放送作家でしたよね?

清水 三谷さんは、演劇を先にやってましたけど。実を言うと、ぼくは河野さんの事務所から、水谷さんの事務所に移ったときに、三谷さんをその事務所に所属させたんですよ。

──〝させた〟ということは、こっちの世界に呼び込んだ?

清水 水谷さんが「誰か、良い若手いない?」って聞かれたときに、「東京サンシャインボーイズ」の芝居が面白かったから、三谷さんを推薦したんです。今思えば、あんな才能がある人を同じ事務所にいれるなんてね、若いときは向こう見ずなところがあるから(笑)。でも、彼は若手の頃からすごかったんです。これは、時代を理由にしちゃいけないけど、先輩が後輩を可愛がるっていう文化がまだ残ってましたから、とある先輩が三谷さんに「来週までに、刑事コントを50本書いてこい」って仕事を出したんです。まぁ、可愛がりですよ。そのあと、先輩から電話が掛かってきて、「大変だよ、清水。三谷の書いてきたコントが全部、面白いんだよ」って(笑)。真面目だし、才能もあるし、意地もあったんじゃないかな。

──三谷さんの作品を例に出すのが正しいかどうかわかりませんが……以前にAmazonプライムでシチュエーションコメディ『誰かが、見ている』が配信されたのですが、ご覧になりました?

清水 作品は知っていますけど、観てないですね。

──厳密にはコントではないのですが、Amazonプライムのオリジナル作品の中では苦戦した印象があります。松本さんの「ドキュメンタル」や、Netflixの「トークサバイバー」の方が話題性としては高かったように思います。

清水 それも、〝つくりもの〟より〝リアル〟を求めるひとつの現象かもしれないですね。でも、三谷さんの作品は観てないので、なんとも言えませんが……あれだけ注目されたら大変だと思いますよ。仮に、満足できる内容でなかったとしても、毎回ヒットを打てるなんてことはないですから(笑)。毎週、コントを書いていた時も、いつも面白いわけじゃないし。それに、一生懸命、考え抜いたネタよりも、ヘロヘロになってノートに走り書きしたネタの方が面白かったりね。

──番組としてのコントが減る一方で、芸人さんによるネタ番組は盛んです。「キングオブコント」(TBS系列)も堂々とゴールデンタイムで放送されていますが、これはどう思われますか?

清水 それも、今の話に繋がるんですが、同じ作家チームでネタづくりをすると、良い時もあれば悪い時もある。いくら複数の作家がいても、毎回抜群のネタは作れませんよ。でも、芸人さんはその時いちばん面白いネタを持っている人を5組集めれば番組になっちゃいますから。それだけ、芸人さんの数自体もそうですが、レベルもあがったということでしょう。

──では、テレビでのコント番組はこのまま消滅していくだけなんですかね?

清水 お金も時間も掛かるし、テレビでは視聴率が取れないということになってますから、ヴィンテージギターのように、嗜好品の文化として残っていくんじゃないですかね(笑)。作り手の中に強い情熱を持っている人がいれば、また違うんでしょうけど。だけど、さっきもお伝えしたように、別の形で〝コントのようなもの〟は表現できると思うんですよ。

──アニメなどの形ですよね。

清水 そうそう。ぼくが脚本を担当した『クレヨンしんちゃん』なんて、コメディですよね。ただ、子どもが見るからお尻を出しちゃダメとか、お母さんが狂ったように見えるものダメみたいな規制こそありますが、そのルールとうまく付き合えば、コントらしい作家としては仕事ができる。実際、たくさんこっちの業界に、笑いの書き手はきていると思いますよ。

──なるほど。ただ、ひとつの可能性として、ドリフ関連の特番は今も放送されているということは、何かしらの方法で成立するんじゃないかと、コント番組フリークのぼくは、小さな希望は持っているのですが。

清水 うーん……。ドリフの番組は、コントの演じ手や作り手にも最高のメンバーが集まってる奇跡みたいな番組だと思うんですよ。だから、時代が経過しても色褪せず、今でも幅広い世代から親しまれるというか。

──若い作家で才能を感じる人はどうでしょうか?

清水 今、才能がある人は、どんどんゲームとかアニメの世界にいくんじゃないですか?(笑)。ぼくがこの業界に入った頃は、ギャグだけ考えてるような人が外車を乗り回したりできるような、憧れもあったから、来週コント50本とか言われてもがんばることができた。今は違うし、コントが不毛の時代ですから。逆に言うと、その環境から出てくる若い人がいたら、そいつが全部持っていっちゃうんじゃないですか。

──コント好きとしては、そういう才能を持つ人の登場を楽しみにしたいですね。

清水 なんかね、コントばっかり作る根城みたいなものができるといいのにね(笑)。そっから、なんかわかんない人が出てくるかもしれないから。


●お話を聞いた人:清水東(しみず・ひがし)さん
1958年生まれ。放送作家であった父親の死をきっかけに、70年代後半から放送作家の世界へ。萩本欽一、ザ・ドリフターズ、ビートたけし、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンといった大御所タレントの番組を担当する傍ら、アニメやドラマのシナリオも執筆。現在も、『クレヨンしんちゃん』や『あたしンち』のほか、劇場アニメの『ドラえもん』などの脚本を担当するなど、精力的に活動をしている。


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