『六人の嘘つきな大学生』 と 新卒一括採用
12 日間の入院中、私にしては本を読んだ。
本は未だに紙で読みたい派なので、気になった本はよくポチして買っては手元に置くものの、読んでないままの本も多くて💦 この機会に・・・!と課題図書として持参した。
とはいえ。入院当初は病院独特の雰囲気に呑まれてあまり活字を読む気にならずw 術後すぐはぶっちゃけそれどころではなくww 落ち着いてきた術後4日目あたりから、ようやく活字を読む気に。
読了した順に並べてみると、ジャンルのバラバラ感が一目瞭然😂
1. ムスコ物語
2. バナナの魅力を100文字で伝えてください
3. もし幕末に広報がいたら
4. 日本の建築家解剖図鑑
5. 建築デザインの解剖図鑑
6. 元彼の遺言状(サラッとリピート、月9が始まったからw)
7. 六人の嘘つきな大学生
数冊ピックアップして簡単な感想を・・・
『ムスコ物語』
大好きなヤマザキマリさんのエッセイで、これまた大好きなフレディみかこさん、山崎ナオコーラさんに共通する、私にとって憧れに近い「価値観」をお持ちの方で、このエッセイも爽快感が半端ない。巻末のデニスくん(ムスコ)による『ハハ物語』も秀逸。
『もし幕末に広報がいたら』
曲がりなりにも一応「広報経験者」なので、めちゃくちゃ面白かった。そしてしばらく「広報」の現場から離れてしまっているからか、なんだろう?すごく「広報」がやりたくなってきたw なんて単純ww ただ、こういう気持ちって意外と大事だから、ちょっとリサーチをしてみようかと。
『六人の嘘つきな大学生』
巷でも話題の小説。妹ちゃんが購入してたので借りてみた。これはきっと映像化されるんじゃないかな?と偉そうに思ってみる。構成がとってもクリエイティブで、一気に読んでしまった。
人はいい意味でも悪い意味でも誰もが多面性を持っている
だからこそ俯瞰した多角的な視点を持つことが重要よね、とつくづく思った。
『六人の嘘つきな大学生』 からも感じてしまった新卒一括採用の違和感
前段が長くなったけど、この小説『六人の嘘つきな大学生』は個人的に長らく違和感しかない “新卒一括採用” が舞台で、本筋とはズレるけど、採用担当者と採用側になったかつての大学生の視点に触れられたシーンにはドキッとした。
そうなのだ。特に一次面接的な場においては、採用のプロでもない現場担当者がその場しのぎの「なんちゃって」面接官になって良し悪しを決めることも多い。私も偉そうにも何度か経験あって、正直、その判断って主観以外の何ものでもないよね。。。と今更ながら重たい気分になる。面接を受ける側も少なから自分を大きくみせようと少なからず猫を被るから、どっちもどっち?ではあるかもしれないけど。このエピソードから、新卒採用の「お祈りメール」受信の背景を思って、やるせない気持ちになってしまった。
恐らく、ある程度の人が違和感を覚えながら、最適な採用方法が見つからないから?と変わることのない “新卒一括採用”。日本は大学の卒入学も「ほぼ」同年代に限られるから、「ほぼ」同い年の人たちが、「ほぼ」一斉に就職活動をはじめて、「ほぼ」同じ格好をして(おにぎりみたい。。。といつも思う)、「ほぼ」同時期に社会人になるって、やっぱりちょっと異様に感じてしまう私がいる。
ただ、ちょっとだけ俯瞰して考えられるようになって、その違和感の正体が少しだけ分かってきた今日この頃。
私の違和感の正体は、 “新卒一括採用” というシステムそのものではなくて、社会人になるためにはまるで “それ” しか選択肢がないような、そんな社会の空気に違和感を覚えているんだと思う。
社会人デビューを目指す多くの子が、社会に出るには “新卒一括採用” という “それ” 以外の道がないと思っているんじゃないかな?だから多くの人がベルトコンベアーのように “新卒一括採用” のシステムに疑いもなく乗って就職活動を行っている、ような気がしてしまっている。
それって、自分の人生の少なからずの岐路になる就職活動で、自分で「考えて」「選択して」「決める」、そう行動しているわけではないんじゃないかな?それって、勿体ないよね?(危ない、とも言うけどw)せっかく、自立できるこのタイミングで、自分で「考えて」「選択して」「決める」ができないってただただ勿体ない、と私は思ってしまう。
“新卒一括採用” という“それ”以外の選択肢もあるのだ、世の中には。だか、あまりにもマイナーすぎる・・・。現実的に、大手企業の中には「新卒採用枠」以外、新社会人デビューの機会を設けていない会社も多いのも事実だけど、時代はちょっとずつちょっとずつ変わってもきている。
社会に出る道にもいろいろな選択肢があることが前提で、その中で自分で「考えて」、“新卒一括採用” というシステムを「選択して」、就職することを「決める」子。自分で「考えて」、“新卒一括採用” 以外を「選択して」、社会に出ることを「決める」子。
そうなれば、私にとっては前者も後者もとても自然で、さらに後者にはそれこそバラエティ豊かなルートがあると思わずにいられない。
勝手な持論だけど、たとえ失敗したとしても自分で「考えて」「選択して」「決めた」ことであれば、後悔はするかもしれないけど、他人のせいにすることはない、と思ってる。コレって生きていく上で、意外と大事なことのような気がしている。
世の中にはいろいろな選択肢がある
だから自分で「考えて」「選択して」「決める」
そんなことができる社会に私たちは生きている!のだ、たぶん・・・w
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