還暦過ぎた水瓶座が覚醒した話1月20日

昨日の続きになるが『自分=神』とした場合、日本人が一つの宗教にはまりにくい理由がわかる。『自分の良心=神』で外の神様はいらないからだ。
『神様が見ている』というはイコール自分であり、綺麗なものを見たいのも自分の中にある神をより浄化し強くしたいからだと思ってのことではないか。

滝行や即身仏も自分内の神を限界以上まで浄化しようとしているのだと思う。日本人の良心が強いのも(落とし物が返ってくるような事など)やはり自分の中の神がさせているとも言える。
困っている人を助けたくなるのもそうだ。共同の場所は綺麗にして皆が使いやすいようにしたり。

しかしそういう様子を見て、それを悪用したい人が出てくるのは当然なのかもしれない。それが『こぶとりじいさん』『花咲じじい』『さるカニ合戦』のような妬みやそねみでいっぱいの隣人だ。
同じようになりたいが故に同じ事だけをしては失敗する。
『花咲じじい』で、『枯れ木に花を咲かせる』というのは非常に日本人的だ。
諦めていた木が満開でそれを皆で愛でる。美しい花で皆で堪能する。
そして、犬を殺すのは実に非日本人的ではないか。
『さるカニ合戦』で騙し、独り占め、殺害と、なんだか現代のような話だ。
残された小さい子供たちが残された小さい子供たちが復讐する。
『こぶとりじいさん』の話について検索すると、鎌倉時代13世紀前半に編纂された『宇治拾遺物語』という説話集に収められていて、中世以前、少なくとも平安時代には広く伝わっていたそうだ。
『花咲じじい』で室町時代末期から江戸時代初期に成立していたそうだ。
面白いのは中国や韓国にも似た話があるとのこと。昔の中国ならばわかる。

神は自分の中にあるのだから、神頼みが成功するかどうかは自分次第だ。
無理なことは無理だし、奇跡なんてものは滅多に起こらない。
努力あってこそのものだ。試験前に見た所が偶然テストに出るかもしれないが、私のように『最後に見たけど覚えていない』こともありうる。

自分は自分の神の創造主なのだ。自分に自信がない人こそ、あるいは集団の力を利用したい人たちは宗教へと走る。ギブアンドテイクだ。団体側は集団の力を、信者側は信者たちが得られる特権を利用する。
こんなところに神がいるはずがなく、あるのは邪悪の念だけである。





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