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『読み方』について考える

小説を読んだ感想を上げてみたいなあ・・とおもいつつ、どうにも出来ない理由の一つに、

「これで、読み方、あってます……?」

というのがある。

小説というのは、さまざまな解釈があると思うし、そうされても良いものだろうが、それでも、全く違う読み方をしていないだろうかということが心配になる。

最近特にそう思うようになったのは『火垂るの墓』に対するポストだったと思う。
主人公の自業自得的なポストだったか。
たしかに、そのポストに納得出来る要素もあったが、それ以上に、この話は戦争を扱ったもので、そこに込められているものは(物語のテーマは)、『主人公の自業自得』ではないだろう。

『どう読んでもいい。自由だ』というのは解る。
『でも私はこう読んだ』も理解する。

けれど、ある程度、なにかをきちんと精読して読み、理解する為には、ガイドとなる人が必要なのではないか。
そういう意味で、私は、好き勝手に『好きな小説』を読んでいるとき、私自身は、ちゃんと『読めて』居るのだろうか。

そんなことを考えてしまうようになった。

書き手の私としては、『自由に読んで貰って良いです』だし、読み手の私としては『私のほう(受取手)に問題があり、その為、私自身の経験が変化すると読み方が変わる』と理解して居るので、何冊か、年一で同じ日に読み返す本がある。

そして、どう感じたかを、観察する。
私自身の定点観測をする為の本、にさせて貰っている。

私の『好きなように』読むのと、『きちんと読む』は遠く隔たっているように思える。

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