目の前にいたのはもう1人の私
昨日、圭吾さんとラジオをさせて頂きました。
ラジオだって忘れて、
夢中に向き合って話しを
していました。
うまく言えないけれど、
目の前にいたのは圭吾さんであり
ある瞬間は自分だったように思う。
時々私と貴方という
区別がない瞬間があった。
それわかるよーって共感レベルじゃなく
それ私です。
垣根がなく、ひとつの世界を勝手に感じた。
おこがましいが勝手に
もう1人の自分を感じる瞬間があった。
圭吾さんの
癒されたいけど癒されてたまるか
理解されたいけど理解してたまるか、、
そんな矛盾とか葛藤。
またどこまでも自分でしかいられない。
ツルリと生きられたらどんなに楽だろう。
でもどこまでいっても
自分は自分をやめられない。
時に苦しいだろう。
その姿を見ると
それこそが人間であり私は
美しいと思った。
矛盾を埋めようとなんてしなくていい。
カオスがあってこそ人間。。
そう聞かせてくれたとき
矛盾をあるものとし受け入れ
生きてくのは、清々しさもあり
とても美しいと思った。
おそらく、それは
私が美しいのだと言うことなのだ。
私たちは美しいということなんだ。
葛藤も矛盾もあるまま、そこに
答えは見つからなかったし
おそらく答えがあるものではないのだ。
それどころか、また新たな問いが生まれた。
問いがあるうちは、
生きたがってる証拠なんだと思う。
まだまだ悟りたくもないのだ。
葛藤や矛盾も持ったまま明日も明後日も
みんなそれぞれ1人、朝を迎える。
でも目の前の貴方はもう1人の私って
感じた瞬間は、孤独はなかった。
バラバラをひとつに。
元々ひとつなことを
思い出すだけでいいのかもしれない。
まず、これから出会う人のこと、
出会ってきた人のことを
もっともっと知りたい。
長い付き合いでも
知ったつもりなんてダメだ。
それはとてもおこがましくて無礼な行為だ。
それと、伝えたつもりもダメだ。
心から話し、心から聴くことは
これから、全力でやりたい。
今日と明日では人は考えが違う。
今日の新しい貴方を知りたい。
それは今日の
私を知ることと同じなのだ。
自分をこの世界を
もっともっと知りたいです。
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