父と向き合う。

まずは父に自分の気持ちを
伝えることにした。

私を
どうして殴ったのか?
1番許せないのは、殴られても
どんなに嫌でも小学生や中学生の
自分は家を出る術を知らず
父に従うしかなかった。
自立することが選べない段階で
そーゆーのは卑怯だと伝えた。
私はおかげで病気になったと言った。
父が今なんで、普通に生活しているか、
それは私が虐待に負けず、死ななかったから
犯罪者にならずに社会的立場を
保てているのに。って言った。

こんなことを言う自分が嫌だった。
でもスッキリはした。

謝られた。そして父は自分に似た
繊細さがある私の弱さを見ると
心配になり手を上げてしまったと言った。

父はやんちゃであるが、繊細だった。テレビで殺人事件など見ると病んでいた。

また母の父はとても社会的地位が高かった。
しかも相当人格者で、
怒ったのも見たこともない。
自分は質素な暮らしをし、学費がなくて医者になれない若者に
こっそり寄付をしていた。余談だが
そんな祖父がガンになったとき
毎日若い支援を受けた方々が
励ます意味でか、訪れていた。
天国にお金や、地位は持っていけないけど
こんなふうに、最後たくさんの人に囲まれ
感謝されて終わるのは、幸せな気がした。
1人の生き様に感激していた。
最後棺には1000円の愛用していたカバンと
私が初任給で買った、ストールが入っていた。

祖父は私が病気になってからも
私に会いにきてただ傍にいてくれた。
手紙もくれた。父に殴られたあとは必ず
祖父の家に泊っていた。殴られたことは
心配かけたくないなら言わなかった。
もしドラゴンボールが揃ったら私は
祖父の永遠の命を願いたいと思っていた。
それくらい失いたくない祖父だった。

多分父は、自分が田舎からでてきたし、
小さな会社を立ち上げるくらいであることに

慶應卒大企業の取り締まり役で
人格者の祖父にコンプレックスを感じていた。だから勉強勉強って言ったのだと思う。
また父は自分も殴られ育ったという話を聞いたことがある。

父を責めると同時に
私は父の繊細さを守りたいと
いつも感じていた。
慶應じゃなくても
田舎者でも

必死で社会を渡り家族を守る
父はすごいって伝えたかった。

それは今も感じている。

責めるだけ責めて、謝って貰ったあと
私はもっと壮絶な闘病生活になっていた。
息をすることすら辛く何をしても苦しい。
食べられず、38キロにまでなっていた。起きていると死にたくなるから、
薬で20時間眠る生活だった。

そんな意識が朦朧とした生活の中
母に京急百貨店に連れていってと
お願いした。歩くのが不安だから
支えてほしいと。

父の日のプレゼントを買いたかったのだ。
母に支えられ、プレゼントを選んだ。
そこで店員さんが普通の状態ではない私を
座らせてくれた。
ペンとメッセージカードを差し出し
よかったらと進めてくれた。
私は字が書けないほど、薬にやられ
手がいつも震えていたが
震える手で30分かけて
短い文を書いた。

私のお父さんでいてくれてありがとう。

そう書いた。字は震えから
ギザギザだった。
ただこれを書いたとき
長年の胸の仕えが取れた気がした。
私は苦しみを越えようとしている、、そんな
予感がした。

父は泣いていた。びっくりした。
それから海外出張のときも
必ずメッセージカードを持っていった。
なにより父が、私に優しくなった。
私を守ろうとしていることがわかった。
私を傷つけるものから守ろうとしている
父になった瞬間だった。

それから一緒にでかけたり
するようにもなった。

私はこのことで
親であっても、自分から愛することで
自分が救われるということを学んだ。
相手が年上でも親でも
愛情不足で拗らせたり、
よからぬことをしてしまうことがあるのだと。
人にはそういう弱さとか傷が
誰しもある。
たった一言、愛情を伝える、、
それで救われることがあるのだと。

もし、なにか悩んだとき
論破したり争うより自分の中にある
愛情をまず伝えてみる。
その解決方法が1番自分が幸せだと
知ることが出来た。

その前にきちんと憎んだことも
よかったと思う。
きちんと憎んだこと。感情を味わいきったことで
人を一生憎むことは出来ないと
知った。どうしても幸せになる感情を
選んでしまうのが人なんだと知れて
安心した。
ひとしきり憎んだら
愛情があることに気づいた。

そんな自分に安心をした。

だから安心して憎み怒ることができるようにもなった。それを含め人間なんだと思う。

そんな感じで父とは葛藤がありながらも
今、父の娘であることに誇りを感じるまでに
至っている。

母との葛藤についても
書きたいと思う。

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