ふと、小学校の道徳の授業を思い出す
私が小学5年生くらいの頃の話。道徳の授業で
「"あなたはやさしいですね"と言われて気分が悪くなる人は手を挙げてください」
と先生に問いかけられ、クラスで私だけが手を挙げた。もちろん、
「いませんね?"やさしい"と言われたら誰しも必ず気分が良くなります」
と繋げて説得力をもたせるための、儀式的な問いかけだということくらいはわかっていた。それでも、私の中では大きな違和感があり、納得しきれず手を挙げてしまった。
この頃の年代であれば、誰しも多少はあっただろう、反抗期的な幼い精神から「単にマジョリティに逆らって目立ちたかっただけ」と思われるかもしれないが、私の中では明確な理由があっての行動であった。幼い当時はその理由をうまく言語化できず、先生やクラスメイトからは大いに変人扱いされた。しかし、今思い返してみれば、それを多少なり言葉にできるのではと思って書き出してみた。
私は当時までの、10年弱という短い人生の中で「あなたはやさしい」などと言われた事は一度もなかった。それ自体は明確に私自身の性格が悪いので仕方のないことだが、そのような状況で突然「やさしい」と言われれば、あまりのそぐわなさから悪寒が走るだろう。童心ながら、私はやさしい人間などではない、という確かな自覚があったのだ。例えば、カラスを見て白い、などと言えば誰しもギョっとするだろう。まして、自分は黒いという事を自覚しているのに、「あなたは真っ白」と言われたらどんな気持ちになるだろうか。相手の認識が狂っているのか?はたまた、自分の思考が間違っていたのか?と不安になるだろう。また、一般的にはやさしい人間というのは良い人間とされるため、やさしくない悪い人間が誰かに「やさしい」という印象を与えてしまう事は、詐欺行為に他ならない。自分が知覚していることと矛盾すること、人を騙して間違った印象を与えること、この2点がどうしても、小学生の私には容認できなかった。
もし、日頃から人にやさしく接することを心がけようと努力している人が「やさしい」と言われれば、この上なく嬉しいことに違いない。思いが通じたのだから。そういう報い自体を否定するつもりはない。日頃から努力していなくても、まあ大多数の人間なら「やさしい」と言われて喜べるだろう。それを怠慢だとは思わない。他人の感性を否定するつもりなどはない。しかし、どんな言葉にも、この私のようなレアケースがありうると思われる。
「言われて必ず良い/悪い気分になる言葉」など存在しない。同じ言葉であっても、文脈、状況、人間関係によってその意味は変化しうる。全く同じ言葉であっても、場合によっては人を癒すし、傷つけもする。それなのに、感情表現やリアクションを一元化し、共通化を推し進めるのは正しい取り組みなのだろうか。古今東西、言葉の暴力のみで命を落とす人間は多数いる。そういった事象を防ぐために必要な方法は、表現の一元化しかないのだろうか。私は人と会話した後、いつも考えてしまう。あれらの言葉は、先方を傷つけるような文脈を内包してはいなかっただろうか。何気なくかけた言葉が、凶器として受け取られていないだろうか。考えるだけ堂々めぐりだが、何も考えないよりはマシなんじゃないかと思う。自分にできる事は何だろう。考えても結論は出ない。
「あんた不器用だな」と言われれば、「たしかにその通り。よく俺のことがわかったな」と称賛したい。とても良い気分である。
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