瞑想から念仏へ

浄土教に出遭った頃の私は、南伝テーラワーダ(上座部)の本を読んで、教義や瞑想を学んでいた。
しかし、教義は難解で瞑想も上手くできない。

それはそうで、上座部の教えは基本出家者が行ずるもので、在家のものにとってはハードルが高い。

社会生活を一度傍において、一定期間集中して学ばないとダメだと思いはじめていた。

しかし、本格的に学ぼうと思えば、それこそ仕事を辞めて、タイやミャンマーにわたり、そこで教学を学び、瞑想修行をしなくてはならない。

当時の私にとって、あまりにも現実的じゃない。

もちろん、全てを投げ打って、単身海外に渡り修行している人もいる。

そういった人たちには尊敬の念を覚えたが、私にはそういう決断はできなかった。

理想と現実の間で懊悩する日々だった。


そんな時、私は法然聖人と出遭った。

幼い頃に父を殺され、父の遺言に従って敵討ちをせず、仏門に入り後に比叡山に登った。

比叡山では智慧第一と評され、将来を嘱望された聖人。

しかし、聖人は名利を望まれず、黒谷に隠遁し修行された。

戒律を誰よりも守り、幼名の勢至丸のとおり、智慧が深い聖人だったが、それでも自らを三学の器にあらずと言った。

戒、定、慧の三学は仏教の基本であり、仏教そのものといってもいい。

自分はその三学をおさめる器ではないということは、すなわち悟りへと至る仏道は閉ざされたことと等しい。

幼い頃から真剣に求めてきた仏道が、甲斐なく終わると言う現実。

聖人の苦しみと絶望は想像しようもない。

それでも聖人は仏道を求め続けた。

やはりそれは、幼少の頃より学んだ、天台法華の一乗の教えがそうさせたのだと思う。

そして、経蔵に籠り、一切経を読むこと5回目に回心されて、比叡山を降りた。

その後は浄土宗を開宗して、念仏の教えを広めていく。


私の拙い言葉で聖人のご生涯を書いたが、当時私は聖人の生き様に心の底から感動した。

正直、浄土宗の教義や念仏の意味など知らなかったが、法然聖人が言うならそうなんだろうと、その時から私は瞑想をやめて念仏を唱えるようになった。

当時の私のありさまを法然聖人のご生涯と重ねて、私の救いを念仏に見たのだと、今になって思う。

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