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幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話・山伏②」

 「安宅」の一曲は弁慶らが偽山伏になり判官の強力(ごうりき)として、「時しも頃はきさらぎの十日の夜、月の都を立ち出でて、(時まさに二月十日の月の夜、京の都を立ち出でて)・・・・」、海津の浦に着いた時から事は起こり、加賀の国の富樫某が新しく立てた安宅の関所を通り抜けようとして波乱万丈の一場面を展開する。その原因は、総て一行が偽山伏となったところから発生する。しかしながら、世に追われる者が山伏に身を変えて人目を避けようとするのは、義経や弁慶の智謀から始まったものではない。思うに山伏と云うものは僧ではないが仏に依って自立し、武家権力に対し雌伏することなく家門の威厳を持って、且つ胎臓黒色のはばきに脚を固め、八葉蓮華の八ツ目の草鞋を踏み、金剛杖を突き立て、降魔の剣を帯び、いざと云う時には能く闘えるよう身支度を調えた上で諸国を縦横し、諸山に修業することを重要な教義とする者なので、時の武権に対して反逆の位置に身を置く者にとっては、この上もなく頼りになる屈強な者である。このため義経等が北陸を経て奥州に行こうとして偽山伏になることは、真(まこと)に当を得た計画と云えるが、これは弁慶等が創案したものではなく、初めて偽山伏となって身を守り志を遂げた者は、実は新宮十郎行家である。頼朝や義経に取っては実の叔父である。保元平治の乱以後、平氏が勢力を得て源氏が勢いを失うに当たり、紀伊の新宮に屈在したことで新宮十郎の名がある。また陸奥に居たことがあるのか、または陸奥の者の力を頼りにしたことがあるのか、陸奥十郎とも呼ばれる。初めの名は義盛とある。治承四年の四月、源三位頼政が密かに一院第二ノ宮の三条高倉御所に参上して、平相国清盛以下の凶逆の臣を討伐すべしとの令旨を得て、前右兵衛佐頼朝以下諸国の源氏に仰せられ、平氏一族を誅しようとする。以仁王の平氏追討の令旨は、頼政の子の前伊豆守正五位下源仲綱がこれを奉じて、同九日付けで下付されたが、これを頼朝や東国の諸源氏に伝えるのに適当な者が無くてはならない。であるが、その時行家は京都に在った。家柄もあり器量もある適当な者であるとして、頼政が推挙し奉ったことで、散位宗信に命じて令旨を下されて行家を東国に派遣される。野も山も平家の世の中を、重大密書の御令旨を懐いて東国に下ることは、もとより容易ではない。ここに新宮十郎は八条院の蔵人に任じられ、名も義盛から行家に改めて、天地を覆す改革の大使命を帯びて関東へ下ったのである。その時行家は自ら工夫して山伏姿になったのである。熊野の新宮に居たので、日頃から山伏修験道の行儀を能く見覚え聞き覚えしていたであろう、怪しまれたことが有ったかどうか知らないが、その月の二十七日には伊豆の国の北条の館に到着し、前右兵衛佐頼朝に水干を装おわせ、先ず男山八幡宮の方を遥拝し、その後に謹んで令旨を頂戴させ拝謁させて、その後には遂に頼朝が挙兵して平氏の討滅に至るのである。世の人はともすると、文覚法師が頼朝を決起させたとするが、頼朝は文覚のような騒動好きな法師の言葉によって決起するような軽薄な人ではない。叔父であり蔵人である行家によって、前伊豆守正五位下源仲綱が奉じるところの令旨が齎(もたら)されたことで、決起したのである。しかも四月二十七日に令旨を得た後は甚だ密かに周到な準備をして、その年の八月十七日になって山木判官兼隆を血祭りにしたのである。この間、伊豆・常陸・甲斐・信濃・美濃・尾張・近江の諸国に、その地その地の源氏を訪ねて、金剛杖に勇威を帯び、五智の宝冠に機運輝く天日の光を浴びて、魁偉な山伏が徘徊したのは、云うまでも無いことである。ただし新宮十郎は、山伏の本場である熊野の新宮から出たのであるから、以仁王の令旨の他に本物の勧進帳も用意してあったであろう。その勧進帳は弁慶の俄(にわか)作りのものに比べて戯曲味が少ないために、源氏決起の大功を立てながら偽山伏の株を弁慶に奪われたと思うと可笑しい。
 行家はまた他の株までも人に奪われた。智勇が無いわけでは無いが運の無い上に、徳の少ない生れ付きなのか、行家は後に頼朝から憎まれて義経と共に逮捕されようとする。和泉国八木の日向権守清実の家に隠れて居たが、平時定と云う者が之を襲おう考えたが、行家の手強いこと考慮し賞金を懸けて勇士を募ったところ、常陸坊昌明と云う悪僧が名乗り出た。であればと云って大勢の人が押し寄せた。行家はもともと大力であり刀技も巧みなので、昌明もどうすることも出来ない。大勢が必死に挑みかかるので行家も忙しく、左手にも刀を持って剣戟を縦横に交わす。衆は辟易して近づく事も出来ない。遂に昌明は死を決して行家と組み合うが、組み負かすことができない。時定の部下の宗安が石で以て行家の額を割る。これを卑しんで行家笑って云う、「敵を撃つには刀でするものだ、石でするということがあろうか」と。衆は遂に折り重なって行家を擒(とりこ)にする。行家が昌明にその刀を調べさせたところ、昌明の刀には四十余箇所の疵があり、行家の両刀には全く疵が無かった。昌明は驚き感嘆する。行家は遂に赤井河原で斬首され、首は鎌倉へ送られる。俗伝に云う、「頼朝は行家の幽霊に会い、驚いて馬から落ち、終に死に至る」と。思うに行家の死の甚だ惨酷であったことを云うのであろう。このようであれば、初めて両刀を使って闘った者は行家である。であれば、宮本武蔵に両刀使いの株を奪われたのである。これもまた可笑しい。無論深く云うまでもないが、行家は飽くまで不運な人であったのである。
 
注解
・海津の浦:京を発った義経一行は大津から琵琶湖を舟で渡って海津の浦に着く。
・胎臓黒色のはばき:当時の山伏が着用した黒色の脚袢。
・八葉蓮華の八ツ目の草鞋:当時の山伏が着用した八つの結び目が有る草鞋。行者は八葉蓮華の台に乗って修行に赴くということを表している。
・新宮十郎行家:源行家のこと。源為義の十男で母の里の新宮で生まれ育ったことで新宮十郎行家とも云われる。以仁王の挙兵に伴い、諸国の源氏に以仁王の令旨を伝え歩いて平家打倒の決起を促した。
・保元平治の乱:保元元年と平治元年に起きた宮廷内の権力争いを起因とする武士を交えた内乱。平治の乱で源為義が敗れ、平清盛を中心とする平氏が勝利し、平氏政権成立のきっかけとなった。
・源三位頼政:平安時代末期の武将で公卿で歌人。保元平治の乱では勝者の側に属し乱後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まる。
・三条高倉御所:平安末期の皇族で後白河天皇の第三皇子である以仁王の邸宅は京都・三条高倉にあった。
・平相国清盛:平清盛。
・前右兵衛佐頼朝:源頼朝。
・前伊豆守正五位下源仲綱:源仲綱。以仁王の令旨を承けて、その蜂起の呼びかけの名義人となる。
・散位宗信:以仁王の側近。散位とは位階はあるがそれに相当する官職の無い者を云う。
・八条院:鳥羽天皇の子の暲子内親王のこと。応保元年に二条天皇の准母として院号が下され八条院と称した。
・蔵人:蔵の出納・管理を職掌とする下級官人。
・文覚法師:平安末期から鎌倉初期にかけての僧。京都高雄山神護寺の再興を後白河天皇に強訴したため、源頼政の知行地であった伊豆国(当時は頼政の子源仲綱が伊豆守であった)に配流される。そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝の知遇を得る。
・日向権守清実:当時の和泉国日根郡近木郷の在庁役人。
・平時定:北条時定。北条時政の甥。
・常陸坊昌明:延暦寺の僧兵の出。上洛した北条時政が鎌倉に帰る際に京都に残した、北条時定以下三十五人の武士の一人。時定と共に源行家を和泉国で戦い殺害する。
・赤井河原:京都市伏見区羽束師古川町、桂川沿いにあった河原の古名。和泉国の近木郷で召し捕られた源行家が、都へと護送される途中、都には入れてはいけないという院宣によって、斬首された河原。


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