幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話・苜蓿①」
苜蓿
苜蓿(もうしゅく)は本(もと)はその字が無かった。その昔はその物が無かったからである。現存する「史記」巻百二十三に苜蓿の二字があるが、思うにそれは後人が筆写する時にくさかんむりを加えたからであろう。「漢書」の巻九十六罽賓国伝(けいひんこくでん)には目宿と記されていて、未だくさかんむりは加えられていない。これは古(いにしえ)が遺っているのである。漢の武帝の時に張騫(ちょうけん)が大宛に行ってから苜蓿や葡萄(ぶどう)が支那に入って来た。張騫以前は支那と大宛は交通が無かった。そのため「史記」の大宛列伝は冒頭に云う、「大宛の事跡は張騫によって現れる」と。大宛は今のフェルガナである。張騫が大宛に行ってから後は、漢と大宛及び西域諸国は互いに使者を往来させる。大宛はもともと葡萄や苜蓿や良馬を産出する。「史記」に云う、「宛では葡萄を用いて酒を造る、富者は酒を貯蔵して万余石になる。永いものは数十年も腐敗せず、民衆は酒を嗜み、馬は苜蓿を嗜む。漢の使者がその種子を持ち帰り、ここに於いて天子が初めて苜蓿と葡萄の種子を肥えた地に植える」と。漢の鏡の多くに葡萄の模様が鋳られているのは、如何に当時の人が国の繁栄と美果の到来を喜んだかを語るもので、また苜蓿を離宮別館の傍らに植えたのも、如何にも大宛の天馬を珍重して、その好む飼料を与えようとしたかを語るものである。思うに支那の人々が馬を重んじるのは太古からの習慣であるが、易の坤(こん)の卦が馬を引用していることでも分かるとおり、支那の馬は従順の徳がよく備わっているが勇健の性格に乏しい。そこに大宛のいわゆる天馬を見て大いにこれを喜んで、馬匹の改良を企てたのであろう。支那の古における造父や伯楽の話や穆王八駿の話などが伝えられたのも、皆その馬に駿逸でないものが多かったためであろう。水の悪い地には良泉(りょうせん)や佳井(かせい)の名を持つものが多い理屈で、「星の井」をはじめとして名水の多い鎌倉などは実に水の悪い土地である。思うに漢の馬は弱小で問題にならない、しかるに大宛の馬は勇壮偉大で天馬の子であると云う。「漢書」孟康の注に云う、「大宛国に高山が在る。山上に馬が居るが得ることができない。そこで五色の母馬を選んで山の下に置き、共に集合させ子を産ませる。駒は皆汗血馬であり、それを呼んで天馬の子と云う」と。張騫が初めてこれを武帝に云うと、武帝は使者を送って、千金と金馬を持たせて大宛の天馬を求めさせる。しかし大宛王の母寡(ぼか)は、大宛と漢の間は道中が遼遠であり、大軍の来ることは無かろうと思い、東辺の郁成国の王に命じて漢の使者を攻め殺させて、その財物を奪い取った。ここに於いて武帝は大いに怒り、李広利を弐師将軍に任じて、属国の六千騎と郡国の悪少年を数万人配し、大宛を討伐して弐師城を攻めて天馬を取ろうとする。弐師城を攻めるので弐師将軍と云い、趙始成を軍正にして故(もと)の浩侯の王恢(おうかい)に導軍させ、李哆(りしゃ)を校尉にして軍を統制させ堂々と進発したが、当路の小国は恐れて、各々城を守って糧食の提供を拒んだ。そのため兵は皆飢え疲れて、郁成国に到着した兵は数千に過ぎず、強引に戦ったが余りの疲労に大敗して退却する。武帝は烈火のごとく怒り玉門関を閉じて退却を許さず、更に大軍を増発して攻撃を継続させる。軍兵十余万、前後四年に亘って、遂に李広利は大宛を屈服させる。大宛は城を囲まれること四十余日、貴人達は相談して、王の母寡を殺して謝罪し、良馬を出して漢の選ぶに任せ、干戈の交えを已めることを云う。漢はこれを許諾して、貴人の中から漢に関係の良い昧蔡を立てて王にし、良馬数十頭、中馬以下三千余頭を得て軍を納めて帰国する。別軍の校尉王申生と故(もと)鴻臚壺充国等の千余人は郁成王に敗れたが、李広利が捜粟都中尉上官の桀を派遣して郁成国を攻めさせると、郁成王は康居国に逃げる、桀がこれを追って康居国で郁成王を捕らえ、上邽の騎士の趙弟がこれを斬る。武帝のこの行動は、大宛王の母寡が郁成王に漢の使者を殺させた罪を正すことから始まったことではあるが、大軍を遠境に派遣し、その間四年天下を騒がす。アア、やり過ぎと云うべきか。しかしながら大宛が破れてからは、漢の勢威は大いに西方に振るい、安息国や康居国・奄蔡国・條支国・罽賓国等は皆漢の強大なことを知り、そして大月氏国も張騫の提言には曖昧であったが、漢には逆らえないと感じたものか、また匈奴は漢に軽視できないもの冒しがたいものが大いに加わったことを認めたのであろう、敦煌以西の西域の諸小国は全く従わざるを得なくなった。パミール以西への支那の出兵はこの時が最初である。このようなことは在る筈もないことであるが、武帝の大を好む性格がこのようなことを為したと云えよう。とは云えども、政治上においては必ずしも失敗とは云えない、むしろ有益な結果をもたらしたと云うべきである。しかも東西の文明はこれ以降交流して、ペルシャやインドやローマと支那との接触が進んだのは、武帝の功績が大と云わなければならない。その後の支那の史家の多くが武帝を賞賛しないとはいえ、武帝の雄偉な意気の甚だ愛すべきを覚える。そして英雄の思いは常に多端である、李広利を用いて弐師将軍に任じたのは寵愛する李夫人の兄であったからで、彼に大功を立てさせて侯に取り立てようとしたことは、司馬遷の指摘によっても明らかである。功成って広利は海西侯となり、食邑六千戸を得る。同胞(きょうだい)が栄達した李夫人の喜びのほども知れて、美人の笑顔がつややかにほころぶ様が見える。武帝の喜びもまた察することができる。烏孫の馬を名付けて西極と云い、大宛の馬を名付けて天馬と云う。その天馬を得ること三千余頭、優れた馬の雲集するのを見る。武帝の喜びもまた察することができる。馬は苜蓿を嗜む、平凡な草など与えられない、既に苜蓿を得る、これを植えて望みを極める。紫の萼(がく)に緑の葉は常に風に粛々と揺れて、日が差せば花を照らしてきらきら輝き、光の中をさわやかに風が吹き渡る景色は、まことに観るに好く、武帝の喜びもまた察することができる。このようにして、苜蓿は大いに支那の地に繁茂する。顔師古は「漢書注」で云う、「今、北海の諸州や旧安定北地の境のあちこちに目宿が有るのは、皆漢の時に植えたものである」と。李広利が初めて大宛を討伐したのは太初元年で、戦功を収めたのは同四年(西暦、紀元前百年)である。思うにその当時に苜蓿は支那に入る。陸機が弟に与える書で、「張騫が外国に派遣されて十八年、苜蓿を得て帰る」と云うが、必ずしも張騫は友好的に得て帰ったわけでは無い。「史記」大宛伝に、「漢の使者がその種子を持ち帰る」とある。漢の使者とは云うのは定めし張騫のことであろう。ひとえに大宛のことは張騫から始まる。苜蓿や葡萄の到来も皆張騫の功名に帰す。苜蓿は無論漢には無い、物と名は共に大宛から到来する。目宿は即ち「ムス」と云うもので、大宛即ちフェルガナの語である。葡萄の即ち「プタウ」と云うのも大宛の語である。大宛や安息などでは皆イラン語を使う、無論ペルシャ語である。(②につづく)
注解
・苜蓿:マメ科の多年草、シロツメグサ。俗にウマゴヤシ又はクローバーとも云う。
・史記:中国・前漢の時代に司馬遷によって編纂された歴史書。
・漢書:中国・後漢の時に班固編纂された前漢の歴史書。
・武帝:中国・前漢の第七代皇帝。匈奴討伐などで前漢の最大版図を築いた。
・張騫:中国・前漢の軍人で外交官。武帝の命により匈奴に対する同盟を説くために大月氏へと赴き、漢に西域の情報をもたらした。
・大宛:紀元前2世紀頃より中央アジアのフェルガナ地方に存在したアーリア系民族のオアシス国家。
・造父:中国・周の穆王に仕えた名御者。
・伯楽:中国・春秋時代の人。相馬眼(馬が良馬か否かを見抜く技術)に優れていた。
・穆王八駿:中国・周の穆王が所有していたとされる八頭の駿馬。
・星の井:鎌倉・極楽寺坂の下にある井戸。
・孟康:顔師古以前の「漢書」注釈者の一人。字は公休、安平の人とある。
・郁成国:中央アジアのオアシス国家。
・李広利:中国・前漢の軍人。中山郡の人。妹に武帝の寵妃の李夫人いる。
・玉門関:中国・前漢の時に設置されたシルクロードへ通じる関所。現存する玉門関遺跡は漢代のもの。
・別軍の校尉王申生と故鴻臚壺充国:李広利は第二回遠征において軍を分けて進む。別軍の壺充国と王申生は千余人を率いて郁成王を攻める。籠城した郁成王は漢兵が日に日に少なくなるのを知って早朝に三千の兵をもって攻撃し、王申生は殺さる。
・康居国:中央アジアのオアシス国家。トルコ系遊牧民が建てた西域の古国。シル河下流からキルギス原野を中心としていた。
・安息国:中央アジアのオアシス国家。中国がパルティアと呼んだ、現在のイランおよびその北方にあった王国。
・奄蔡国:中央アジアのオアシス国家。中央アジアに在ったとされる遊牧国家。
・條支国:中央アジアのオアシス国家。
・罽賓国:西域に存在していたといわれる国。北インドのカシミール地方もしくはガンダーラ地方に在ったとされる国。
・大月氏国:月氏国は紀元前3世紀から1世紀ごろにかけて東アジア・中央アジアに存在した遊牧民族の国。紀元前二世紀に匈奴に敗れて中央アジアに移動してからは大月氏国と呼ばれるようになる。
・司馬遷:中国・前漢の歴史家で「史記」の著者。
・食邑六千戸:領地の禄高として六千戸の封戸が支給される。
・烏孫:紀元前百六十一年から五世紀にかけて、イシク湖周辺に存在した遊牧国家
・顔師古:中国・唐の学者で「漢書」の注釈書の著者。