幸田露伴の人物譚「遅日雑話(朗月亭羅文)」
遅日雑話(朗月亭羅文)
羅文のことは前にも何かに書いたことがあるが、もう大分前のことで、どんなことを書いたのかさえ忘れてしまった。
何でも大変な面付(つらつき)の男で、今でもあの顔を思い出すと堪らなく可笑しさが込み上げて来て、思わず失笑する位だが、またそのやる事と来ては更に更に奇想天外で、どう評価したところで奇人の名を辱めないほどの人物であった。文久三年の生まれだから私より四つばかり年上だった訳だが、その滅茶苦茶なやり口に至っては私など到底その驥尾に付せるものではなかった。
生まれたところは根津の八重垣町で、ここは誰でも知っているように洲崎の遊郭が今の所へ移るまで根津の遊郭として栄えた場所であるから、羅文は無論その中で育った訳である。もっとも羅文の生家は遊女屋ではなく酒屋であった。それも相当裕福にやっていたと見えて、羅文は子供の頃から読み書きを仕込まれていた。それが、後に小説の一つでも書いてみようという気になったのだろう。現に私のところへ来て居たのも、その方面に出て行こうとするためであった。
しかし羅文は私と一緒に住む数年前に既に仮名垣魯文の門下になっていたのであって、綾垣羅文という号もその頃に魯文から付けて貰ったのであった。だが当人は魯文を余り渇仰していなかったと見えて、魯文の感化は殆んど受けなかったようで、却ってその頃読売新聞の古い投書家であった中坂の真節という人の影響を受けていたらしい。羅文の別号である鎮彦というのは、真節が与えた号であった。猶この他に羅文には愛水という号があった。思うにこれは住居の近くに愛染川という小流があったことによるのであろう。また別に朗月亭主人と称していて、雑文類には大抵この名を記していた。初めに言うのを忘れたが、羅文の本名は滝沢慎八郎といった。
おかしなことにはこの男、子供の頃から武術が好きで、剣術でも柔術でも一通りは心得ていて、ことに手裏剣や棒術などという世間では遣らないことまで知っていた。棒術は天神真楊流を使ったと記憶している。私などもよく剣術の相手をさせられた。この武術は何れもそれ程うまくはなかったが、当人はなかなか得意だった。ことに得意がっていたところは、ヤッと矢声でもかけて芝居気たっぷりの気取った型を見せることにあるので、自分の持った竹刀をわざと打ち落とさせて素早く手近にある得物を取って、芝居もどきに立ち回りを遣りたがるのであったから、こちらが打って遣ろうと思えば何時でも一本取ることが出来た。その代わりそんな時に打ち据えようものなら、きっと機嫌を損ねて、「お前たちのは野暮でいけねエ」と叱言を言った。
この武術が禍して面倒な問題をひき起こしたことも再三あった。根津の遊郭で六尺棒を振り回して、ひやかしの客を片っ端から殴り飛ばしたため、お土砂(硬直した死骸を柔らかくするために用いる砂)を振りかけられて、ふにゃふにゃになって帰った事もあった。また、酒の席で隣座敷へキセルの手裏剣を叩き込んで苦情を持ち込まれた事もあった。プツッと襖を破って不意に手裏剣に襲われては、どんな人達でもビックリしないでは居られまい。この手裏剣を鳥を獲るにも使っていたから満更下手でもなかったろう。
この男、また常に数通の詫び証文を懐中していた。散々いたずらを遣った揚句、苦情を言われる。先ず平謝りに謝ってから、詫び証文を書くからご容赦願いたいというので、先方も渋々承知してしまうと、先生おもむろに予ねて用意の証文を取り出して、サッサと逃げ帰るのであった。羅文の詫び証文には番号がつけてあった。そうかと思うと、舞妓の金ピカの扇を取り上げて来て、その上に山茶花一輪をのせ床の間に置いて、好い気持ちになるような風流気もないではなかった。
酒もよく飲んだ。私も決して飲まなかった方ではないが、羅文の方が一枚上手だった。或る晩、散々日本酒を呷った揚句、また大きなコップでブランデーを飲(や)ったことがあったが、私が七杯で降参したのを、羅文は八杯も平らげてケロッとしていた。その事があってから彼には「ブラ八」という綽名が出来た。ところが本名の滝沢慎八郎より綾垣羅文より何より、この「ブラ八」の方が通りがよくて、いやしくも「ブラ八」といえば仲間内で誰一人知らない者はなかった。またそのブラ八という名が不思議と羅文の人柄にピッタリとしていたので、常日頃は断じて人さまのことなど云々したことのない謹厳な私の父でさえも、流石にこのブラ八だけは綽名で「ブラ八、ブラ八」と呼んでいた。
ケシカランことには、このブラ八、居候の身でありながら、朝などいつも私より早く起きたことはなかった。或る朝のこと、例のように私が先に起きて朝飯の支度を調えてから、ブラ八を起こしに行ってみると、怪しく蒲団がモクリモクリ動いて、中で先生しきりに何かやっているので、何をしているのかと尋ねると、「やア、見つかちゃったア」というから、」「何をしていたんだ」と押し返して訊くと、「寝ててこの工夫をしてたのさ」と答えた。思うにこれは当時甚だ有名であった、三遊亭圓朝の弟子の円遊が得意とする「ステテコ踊り」なるものを、寝ながらやるという洒落であった。羅文は以前から圓朝とは仲がよかった。そういう理由から、当時彼が書いた圓朝伝なるものは、確かに注目に値するものであった。
羅文にはまた妙な性癖があった。墓掃除、ことにこれは無縁を訪ねて香華を手向けるのを好んだ。湯灌、これも頼まれればどんな死人のでも引き受けてやった。後には手馴れて上手にした。「湯灌なんざア訳のないものさ」というのが、いつわりのない彼の言い草であった。それもあってか、銭湯でこのブラ八に流そうかと言われても、私など妙に薄気味悪くなって、ゾッとしたものだ。当時饗庭篁村なども誰にも引けを取らない折り紙付きの変人だったが、さすがにブラ八には恐れをなしていた。旅行などにも、ブラ八の同行だけは同志といえもご免だといって承知しなかった。
こんな男のくせに、その文章や文字がひどく生真面目であったことも有名なことだった。ことに文字は、これでは日に幾字も書けないだろうと言われたほど、一字一画丹念に書いたものだ。文章はうまくはなかったが、たった一つ名文があった。それは下谷のどこかの料理屋で芸者に取られた詫び証文で、これはいつもの番号入りのではなく、新しく書き下ろした、しかも素敵な名文だった。あれがあったらと惜しまれる。あの証文こそブラ八一代の傑作であった。
私の名の出ているものでは、合作ということになっている宝窟奇譚(もっともこれには私が手を加えた)と、萬寿姫の中の一二節とがブラ八の手になったものである。
彼はまた甚だ記憶のよい男で、古人の伝記とか系図・年表など殆んど暗誦していて、天皇の名前は勿論のこと、年号の長短に至るまで即座に応答するのを常とした。羅文がいれば年表は不要というほどに重宝な男だった。
とにかく、このブラ八の羅文は、どの点からみても奇人の名に恥じない人物であった。典型的な奇人と云ってもいいだろう。こんな奇人が実際生きていても、それほど違和感の無かった文学者たちの社会も、恐ろしく他とは異なった空気が流れていたものだ。これを今の文壇と思い合わせる時、いささか隔世の観を感じる。
羅文は明治二十四年の八月、洲崎の自宅で脚気衝心の為に草卒として、死去した。享年二十九、年齢から言えば甚だ夭折であったが、その奇人としての印象は深く時人の脳裏に刻み残された。だがその記憶さえ人と共に一ツ一ツ失われてしまった今日、果たして幾つの記憶がこの世の中に残されているだろう。恐らく今彼を知るものは遅塚麗水氏ぐらいなものだろうと思う。
羅文氏もとより当時の文学に重大な関係があったというのではないが、ただ一個の奇人としてではなく、その頃の或る種の文人間に瀰漫(びまん)していた奇形的な不可思議な雰囲気を説明するためには、やはりなくてはならない時代人であったように思われる。
谷中の玉林寺に葬る。そこには羅文の小さい銘が有る筈で、文は宮崎三昧、字は私の若い頃の筆である。
(昭和三年三月)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?