幸田露伴の随筆「折々草29~31」
二十九 篠崎東海の言
篠崎東海の「東海談」で、「結局師匠を持つから学ぶものが狭くなるのだ」と云っているが、よく云い得ている。旧態依然の宗匠などを師匠にしていて、あまり書物も読まず思いも鍛えない人の俳句などは、何時見ても同じ範疇の中を躍り出すことがない。これと云った過ちの無いかわり優れたものは少しも無い。枇杷葉湯俳諧(びわようとうはいかい)とでも云う外はない。和歌でも詩でも小説でも枇杷葉湯が多くては、その道はやがて亡んで仕舞うだろう。
(注解、篠崎東海:江戸時代中期の儒学者、著作に「東海談」「故実拾要」などがある。枇杷葉湯:江戸の昔、夏に宣伝のために路上で飲ませた湯。ここではそのような俳諧・詩歌・小説の意味)
三十 蓼太が五月雨の句
蓼太(りょうた)の、「さみだれやある夜ひそかに松の月」と云う句は、「こがらしやある夜ひそかに雪の花」と云う菊伍の句を自分なりに改作したものであろう。想のめぐらし方、字のくばり方、句の勢い等をことごとくを奪い取ったと云うべきで、五月雨に松の月を用いたのは、木枯らしに雪の花を用いたよりも巧みなのは勿論だが、「ある夜ひそかに」の七文字の大切な働きについて云えば、この働きを捉えた手柄は菊伍にあるのは勿論である。こう云うと蓼太をけなすようで雪門の人などは腹を立てられるかも知れないがソウではなくて、材の取捨に眼が高いのは手腕の高さを生む一ツの要因であって、蓼太の眼が何十段も菊伍を超えていることは疑い無い。この二句の関係を云い出したのは紫蘇太と署名した男である。
(注解、蓼太:大島蓼太、江戸中期の俳人、雪中庵三世。雪門:服部嵐雪をを祖とする俳諧の一派、嵐雪の住んで居たところを雪中庵という。)
三十一 白雨(ゆうだち)
「白雨や知恵さまざまなかぶりもの」という麦林の句はたいそう可笑しい。ある友の家でこの句意を蕪村が画いたものを見て、蕪村がこの句をどう味わったかを覚(さと)った。こころみに夏の夕暮れにサッと大雨が降って来た日本橋通り町(ちょう)辺りや、あいは千住や亀戸の辺りを想像してみれば、変化無限、巻貝の光を放つまた)青また紅のような句とはこのような句というべきか。なかなか求め難い句である。
「雲の帯やゆうたちをはく山の腰」という句振りは、あまりにも厭らしくないか。夕立のたちを太刀にかけた一句の技巧はヘンではないないが、技巧なので少しの間はおもしろいが永くはおもしろくない。そのような句を厭らしいと思うのも強(あなが)ち無理では無いと思うがどうだろう、私は嫌いだと云っておく。