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幸田露伴の随筆「仏教に現れたる女性」

仏教に現れたる女性

 イヤ寒いことですな、私に婦人観を話せというのですか、そうですな、この女性と云う事に就いては、いつか「欄言」「長語」の中に書いた事がありますが、イヤ、私の女性観を申し上げたところで益もない事ですし、と云って折角わざわざお出でになったのだから、何もお話が無いと云ってお帰し申す事も出来ない。こうしましょう。私は「欄言」「長語」の書いた外に「七輩婦」とか「女の上」などを書いて居ますが、これは玉耶教と云う経文にあるので、一寸面白い事が書いてある経文です。このお話がいいでしょう。
 一体にこの玉耶教には訳本が三通りありまして、それは決して大乗の教えではない、小乗の教えですが、どの訳本も大同小異です。
 その教えの条文と云うのは、昔給孤独(ぎっこどく)長者と云う長者が居て、非常に仏教を信じていたが、その息子にある時嫁をもらった。この嫁の名を玉耶と云うのです。
 嫁の玉耶は、それは縹緻(きりょう)と云い、才知と云い、動作と云い、何の欠けるところもないのですが、そういう女性だけに高慢で、一家が揃って仏を信じているのにも拘わらず、自分一人は別物になって、誰が何と云い聞かせても一向に信心を起こさない。
 これには親の給孤独長者も持てあまして、仏(ほとけ)を招いて説法をして貰ったら、心の角も折れるだろうと、そこでいよいよ仏を招いて説法をして貰う事になった。
 玉耶教は即ちこの仏の説法を主題としたものでありますが、さて仏が給孤独長者の家へ来て見ると、玉耶は奥へ隠れてしまって出て来ない。いろいろに宥めてようやく仏の前へ坐らせたと云う事も書いてあります。
 そこで仏は玉耶を前に置いて、婦人の三障十悪や人の妻には七種あること等を諄々として説いた。この七種と云う事が玉耶教の主題です。
 三障十悪!これは御承知でもありましょうが、三障と云うのは、女が先ず小さい時には父母に従うべき障りがあり、若くしては夫に従うべき障りがあり、老いては子に従うべきあるので、これを三従と説いた経文もある。十悪と云うのは、第一に女子が生まれるとその父母は余り悦ぶものではない。第二に養育をするにつけてもその父母は多くの味をもたない。第三に嫁入り婿取りにその父母は心を悩ます。第四に次第に婚期に入れば人を恐れる。第五に婚約が調えばその父母と離別の悲しみを見なければならない。第六に女が一度父母の家を出れば他人の門戸に寄らなければならない。第七に女が一度人の妻となれば懐妊の苦を嘗めなければならない。第八に既に懐妊した以上はまた臨産の大苦悩を見なければならない。第九に夫には始終恐れて居なければならない。第十に社会に位置も資格も得られない。と云ったようなものです。
 そこで人の妻に七種有ると云う事、これはまえにも申し上げた通り玉耶教の主眼なのですから、項目にして挙げる事に致しましょう。この七種と云うのは、母婦、妹婦、知識婦、婦婦、婢婦、怨家婦、奪命婦、の七種です。
 母婦、これは母のような婦人と云う意味です。これは人の妻として最も尊むべき性格を具えて居るので、まるで母が子を愛し、またその子の発展を願うようにその夫に愛をささげ、その夫の発展を助けると云うのです。
 妹婦、これは妻がその夫に対すること、まるで妹が兄に対するように、大切にも思い、また一面心安くも思うので、温かい情がその胸に溢れるだけでなく、またどこか従順なところがある女性を云うのです。
 知識婦、知識婦と云っても決して知識がある婦人と云う意味ではない。経文に知識と云えば大知識とか云うように、先生を意味するので、ちょうど師が弟子を愛し、またその悪いところを戒めると云うように、妻がその夫を導くこと、まるで師が弟子に対するようなのを云うのです。
 婦婦、これは妻らしい妻と云う意味です。単に自分が婦徳に欠けないようにと身を慎んで、始終にこやかに夫に対して行くと云うのです。
 婢婦、これは読んで字のように婢のような妻と云うのです。これは婢が主人に仕えるように、常に夫を恐れ、自分を卑下し、少しも驕慢の態度が無く、どんなに夫に罵られても甘んじて服従して居ると云うような性質の女性です。
 怨家婦、ここへ来るともう末ですな、この怨家婦と云うのは、夫を見ても愛が無く、ともすれば怒り罵り、欲望もまた夫と異なり、夫を夫として恐れもしなければ、夫を夫として愛しもしない。一言で云えばアバズレですな。
 奪命婦、既に命を奪うと書くのですから、大抵は推測出来るではありませんか。夫を夫とも思わないばかりか、淫蕩に流れ、悪事を企み、遂には夫を殺しても自分の欲望を遂げると云うような性格です。
 この三障十悪七種の道理を仏は諄々と説き聞かせまして、玉耶も遂にその邪険な角が折れ、初めて仏に帰依したと云う事ですが、浄名教などは別に男女の区別をつけていないようであります。え?仏教に善男善女などあるのは矢張り区別を置かないからだとおっしゃるのですか。イヤそう云う意味はない。あれはただ多くの人と云う意味にとどまって居るでしょう。
 イヤしかしこの七種は極めて巧みな分類法で、たいていの女性はこの範疇(はんちゅう)に入って居るようですよ。まず日本などでは第四種即ち婦婦以下の女性が多いようですな。
 婢婦!これは昔からの習慣上随分多いようです。尤もその心がどんなに高潔であっても、人手の無い家などになると、先ずこの婢婦になる方が多いのですが、世の中にはまた随分と怨家婦に苦しめられている人が多くはありませんかね。先ず多くの家に入って見たら、恐らくは怨家婦が跋扈(ばっこ)して居るに相違ないでしょう。(ハハハハ)
 ところでこれからの女学生の理想はどんなものでしょうかな。教育は品性を矯正する道具に相違なく、また高等の教育を受けた者が怨家婦や奪命婦になる訳もないでしょうが、理想は母婦妹婦としてもその実際は婦婦まで行きますかな。勿論「女大学」などと云う教えは、まず婢婦であれと云ったようなものですが、今の教育が果して母婦妹婦を作り得られるでしょうか。良妻賢母と云う文字を標榜していますが、これは少し危ないものです。
 イヤ、妙な議論になりましたな。何ですと。男女の愛はその子の為に殺(そ)がれる。どんなに惚れ合った夫婦でも子が出来ると、夫への愛が直ちに子に移ると云うのですか。そんな事は無いでしょうよ。川柳にこう云うものがある。「添乳(そえぢ)して魥(めざし)は棚にありまする」、分りますかこの意味が、これが子を持った後の夫婦の愛だろうと思います。
 添乳してメザシは棚にありまする!いかにもよく人情を穿って居るでしょう。夫が外から帰って来て飯を食おうとする。妻は子に添乳して寝て居たが、夫の為に買い置きのメザシが棚にあるのを指さして、「私は今折角この子に添乳して居るところだから、お前さんその棚のメザシを取ってご飯を食べて下さい」と云う温かい夫婦の情が此処にあるではありませんか。男女の愛は子が出来たからと云って、決してその子に移るものではないが、その子を愛すると云う事が既に夫婦の愛を繫ぐ一つの手段になるのではないだろうかと思うのです。
 どうもこれと云って、とりとめた話もないようですが、これでご免を蒙りましょう。また他日面白い婦人談をお聞かせする時があろうかと思いますから、イヤ失礼しました。(談)
(明治三十八年三月)

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