幸田露伴の史伝「活死人王害風⑦」
少林寺の達磨は、面壁すること九年、慧可を得たことでその道は大いに輝く。王重陽は各地を廻って函谷の西から東海の浜に到り、馬丹陽を得たことで、全真の教えが初めてその勢いを発揮する。東海に馬を捉えるという懸案の記がある。重陽が東へ行くのも後から見ると、馬・譚・劉・邱等の弟子を得ることを予測していたようで不思議である。重陽は大定七年四月を以て自ら庵を焼き、直ちに東海を目指して出発して、同年秋七月十八日に寧海州に到着する。七月十八日、七月十八日、アアこれ即ち王重陽と馬丹陽が初めて対面した日であり、全真の教えが天下に光り広まるようになるのもこれから起きるのである。
或る日、寧海の人馬従義(馬丹陽)は、友人の高巨才や戦法師と共に范明叔の怡老亭(いろうてい)で飲む。范明叔とも昵懇の仲である。その時一道人が居て、鬚髯(しゅぜん)甚だ美(うる)わしく、面(おも)は蓮華のように鮮やかで、眼(まのこ)が口より大きく、身長六尺余り、豪気堂々として声は大鐘のようである。鉄缶を手にして突然その席に来る。戦法師が問う、「法衣に竹笠の姿で暑さを冒して来られたが、何かを勧められるのか」と。道人は云う、「念願の仙契を得た(仙人に成った)ので、そこで直ちに訪れて来たのである」と。従義等は顔を見合わせ、道人に瓜を与える。道人は蔕(へた)から瓜を食う。怪訝に思いその理由(わけ)を問うと、「甘は苦味の中より来る」と答える。「貴方は何処から来られた」と問うと、「終南山より酔人を扶けるため特に来た」と云う。ここに於いて従義は内心甚だ不思議に思う。これより数日前、従義は高や戦等とこの亭で飲んで、酒が闌(たけなわ)の時に詩を賦して云う、
元を抱き一を守る 是れ工夫、
懶漢(らいかん) 如今(にょこん) 一も他(また)無し。
終日 杯を啣(ふく)みて 神恩を暢(の)ぶ、
酔人 却って有らんや 那(いずれ)の人の扶くる。
と。従義と道人は知り合いではない、またその詩を知っている訳でもない。であるのに、今急に言を出して、三千里を遠いとしないで特別に来て、酔人(迷える人)を扶けると云う。従義は不思議なことだと思い。そこで「道とはどのようなものを名付けて道と云うのか」と問うと、答えて云う、「五行の及ばない処、父母未生の時(道は天地開闢以前から存在する)」と。これより主客は道について語り合い、席上に風(道の雰囲気)が生じる。道人の云うところは一々的を得る。ここに於いて従義は自邸に道人を迎え入れ、談論し問答を交わす。そして自ら作った羅漢頌(らかんしょう)十六首を出して示すと、道人は筆を執って韻を和す。さながら前もって準備されてあったもののようであった。遂に従義は心服して道人に師事する。この詩は翰林直学士が撰した「馬宗師道行碑」に出ている。
馬従義はそもそもどのような人か。従義は寧海の人である。寧海は今も寧海と云う威海衛(いかいえい)西方の日本里で十里余りの地である。馬氏の家系は遠く漢の伏波将軍の馬援(ばえん)から出る。祖父の名は覚、字は華叟、学は五経に通じ、信義の人柄である。絵を売って生計を立て、時に仁慈を行う。父の名は揚、字は希賢、五人の子を生む、従義は第二子である。馬氏の子は甚だ素質に富む。そこで人々はこれを称して馬半州と云い、弟姪三人が進士に選抜されたことで余慶堂が建てられる。従義が未だ生まれない辛亥八月の清々しい朝に客が有ったが、急に紬(つむぎ)の衣を卓上に擲(なげう)って去り、行方が知れない。衣の甚だ重いのを怪訝に思い之を開いて見ると、金色(こんじき)が目を射る。そこで之を収蔵して客を待つ。十日ほどして客がやって来る。そこで之を返す。客が感謝して、「吾は呂洞賓と云う者である。家は幽谷村に在る。砂金の採取を職業にしていて四十両ばかり溜まる。そこで市場で売ろうとしたが、税監に追われて殆んど捕まろうとしたところを貴公に救われた。宜しければ二分して謝意を表したい」と云う。揚は固辞して受けない。呂洞賓は「貴公には黄向(おうこう)のようなところがある、きっと子孫に高士が出るだろう」と云う。後日、幽谷村の人に尋ねたところ「幽谷村には呂という姓の人は居ない」と云う。はじめてその人の異人(仙人)のであったことを知る。従義の母は唐氏であるが、夢で女仙の麻姑(まこ)から丹を一粒もらう。呑んでそして分娩する。実に金の天会元年五月二十日である。従義はこのような家にこのようにして生まれる。幼時から常に「雲に乗って鶴に駕(が)す等」の仙人のような言葉を呟き、夢ではしばしば道士に従って天に昇ったと云う。従義を見て崑崙山の道士李無夢は珍しいとして云う、「額に三山があり、手は膝下にまで垂れる。真(まこと)に大仙の逸材である」と。孫忠願と云う者が無夢の言を喜んで、娘の富春を従義に嫁がせる。子を三人生む、廷珍・廷瑞・廷珪と云う。
従義はこの地方の有力一族に生まれ、資産家で性格が美しく、親兄弟を大切にすることで称えられる。加えて聡明できわめて賢く、学を好み経に精しい。又、金銭を軽視し、義を重んじ、人が貸金を返せないと見ると借用書を焼く。性格も学問も操行も心持ちも、総て人の尊敬するところとなる。その日常の平穏快活であることが知れる。かつて小作人の劉進が耕作の牛を盗み殺したことを許したことなど、また不良少年が顔に唾をしても怒らなかったなど、そのさっぱりたした美質には見るべきところが多い。人はこのような順調な環境に在れば、その幸福を享楽してのんびりしているのが普通である。であるのに、従義は胸中に秘すものが有ったものか、又は持ち前の慧眼が内心から発したものか、人間の栄華の取るに足りないことを思い、究極の清浄こそが真の歓びを与えると感じて、心ひそかに道を思っていたことは、その平生に照らしても明らかである。伝記に云う、二人の褐色の衣を着た者がやって来た夢を見た。そのうちの一人は両肩のところを白布で繕(つくろ)ってある。二人は膝まづいて、「我等の仲間十万人は公の手の中に在る」と泣いて訴え、云い終ると走って南町の方へ去る。従義がこれを追って行くと屠殺業者の劉清の豚舎に入るのを見る。豚舎の壁に頌が有り、「我等の仲間の己亥(きがい)十万人、その大半は既に辛巳(しんし)に殺される。この門はこのように慈悲が無い、代々常に軸頭(じくとう・屠殺人?)に出くわす」と書かれている。夢から覚めると殺される豚の声を聞く。行って見ると劉清の子の阿澤(あたく)が二頭の豚を殺している。その一頭は肩が白い。止めようとしたが止められない。初めて夢の中の人の云う己亥は豚であり、辛巳は即ち劉の生まれ年の干支であると悟り、従義はそこで壁に頌を書く。しかしながら、屠殺業者の心は頑固で悟らせることが出来ない。従義はここにおいて、生死の輪廻、万化の起止変転を思い悩んで、術士の孫士元(そんしげん)に占わせる。因みに寿命を占わせると、「君の寿命は四十九を超えない」と云う。従義は歎いて、「死生は無論人の思い通りになるものではない、有道の人と交わり、死生を超えることを考える以外に無い」と云う。また或る時、従義は客と碁を囲む。打ち合う中で動揺し、「この一石が下せなければ死んでしまう」と云う。このように、常に生を情(あわれ)み死を傷(いた)む心が心中に在るのであれば、夢で二豚が自分に訴えるのを聴くのもまた不思議ではない。人間は露や電光のように果敢ないとの思いが、常に心の中に蓄えられているのであれば、術士の言に感じ入るのもまた自然の勢いである。生死を超越したいとの思いが常に心中が萌えているのであれば、たまたま碁の一着時に動揺して内心の思いを口にすることも、またあり得ることである。これ等の事は馬従義が未だ王重陽に会わない以前から、すでにその胸中に道に入り向上しようとの念が湧き出していたことを語るもので無くて何であろう。
従義すでに重陽に遇う、機縁投合して重陽を家に居(お)く。もちろん目上の人として待遇するが、しかしながら従義の信奉するのは孔孟の道であり、重陽は儒教を排斥しないと云えどもその主とするところは玄(道教)にあるので、未だ俄かには信用しない。劉祖謙の「重陽祖師仙跡記」に、馬従義もまた儒流中の豪傑である、初めは容易に師に従わなかったと、その実際が記されている。しかしながら従義は重陽の談論に甚だ聴くべきものの多いことから、庵を造って其処に重陽に止まって貰いたいと思い、重陽と共に南園を逍遥して其の地を選ばせる。これ以前に従義は夢で南園の地中から鶴が飛び出るのを見る。今重陽が指すところが其処である。従義の心は大いなる不思議に驚く。庵が成り重陽はこれに全真と名付ける。全真の名は実に此処から起こる。
重陽は馬氏園中の全真庵に在って、将(まさ)に従義を教化しようとするが、未だ従義も即座には屈しない。これはまるで、釈迦が自らの教法が大いに広まると、迦葉(かしょう)を教化して弟子にしようとしたが、初め迦葉は従わず、「しばしばその及び難いことを思うといえども、吾が道の真には及ばない」と、頑固に再三云ったようなことだ。そこで重陽は焦らずにゆっくり落ち着いて、おもむろに機の熟すのを待つ。従義の妻の孫富春は従義より四歳年上であるが、これもまた温良聡明で才学がある。重陽の言動を観て有道の人であると思い、心から敬い礼を尽くす。
当時、崑崙山に道士の丘処機、字(あざな)は通密と云う者が居た。家は代々登州棲霜の名族である。年わずか十九歳の大定六年に、俗を棄てて道に入る。機敏で知恵があり学を好む。眉の辺りが広く、動作が上品で美しい。能く人相を観る者はこの人は必ず帝王の師になろうと云う。若い時から道の教えを慕い、超然とした意気は世塵の中に在ることに我慢ならない。重陽の名声を耳にすると訪れて教えを請う。一目見て重陽は之を愛し共に語ること終夕(しゅうせき)。玄機契合する。よって詩を贈って云う、
細密の金鱗 碧流に戯れ、
能く香餌を尋ねて 鉤(こう)を呑むことを会(え)す。
予(おもむろ)に 緩々(ゆるゆる)と 綸線を収められば、
拽(ひ)いて蓬莱に入って 永く自由ならしめん。
処機は拝礼して之を受け、遂に重陽の銀鉤(教化)を呑み、玄線(玄旨)に拽かれてその弟子となり、長春と云う号を得る。それからは朝夕重陽の身辺に控えて洒掃(しゃそう・清掃)の役を務める。学は月に進み、道は日に進歩する。寂通居士陳時可が撰した「長春真人本行碑」は、長春の一生を記して要領を得る。碑文に、「全真の一派、道これが源たり。鼻祖はそれ誰ぞや。聖なるかな元。誰かそれ之を導ける。重陽これ始む。誰かそれ之を大にせる、子長春子。(下略)」というが、実に詞に浮いたところがない。後にインドに於いて古今の英雄ジンギスカンに見(まみ)えて、多く人を殺すなかれと直言し、ジンギスカンに礼遇されて、大いに道教を援助させたのは実にこの丘長春(丘処機)である。当時の取るに足りない一少年道士が、何と後日に機会を得て、大いに力を尽くし務める姿を人々が拝して感泣するような活神仙になろうとは。銀鉤(ぎんばり)も好し、玄線(みちいと)も好し、釣者も勿論好し、被釣者もまた好い。長春は重陽に遇ってから、学問道徳大いに進んで、馬丹陽を除いては全真教門の第一の人になる。因縁まことに不思議と云うべきである。長春は「元史」にその伝記がある。重陽が長春を弟子にしたのは、思うに大定七年であり、その時長春は年二十であった。
長春が重陽に随従するようになるのと前後して、同じように重陽から教化を受けた者に郝広寧がある。広寧の名は昇(嘉議太夫徐談が撰した「郝宗師道行碑」に拠る。正宗記では名は璘と云う。)、恬然子と号し、自ら太古道人と称す。家は代々寧海に在って代々官に仕える。兄の俊彦は朝列太夫昌邑県令である。広寧は母に仕えて至って孝行、資質豊かで美しく、常に黄帝や老子・荘子・列子の言(げん)を愛し恬淡無為の道を喜ぶ。気に入った趣きある林泉幽寂の地に遇えば、徘徊吟唱して終日帰ることを忘れる。深く易を究めて占卜(うらない)の道に通じる。大定七年の秋、王重陽は西から来て寧海の街を行脚する。たまたま街に広寧が占卜の店を出している。重陽は一目見て、その言動の尋常でない、教化すべき仙骨の在るのを見て、之を発奮させようと思う。客が環状に並んで座る中を、突如重陽は入り、広寧の面前で背を見せて坐る。広寧が「貴方は何故後ろ向きに坐られるのか」と云うと、重陽は云う、「只々、先生の敢えて回頭しない(考えを変えない)ことを恐れる」と。広寧は慄然として驚き、顔色を変えて覚(さと)る。回頭の一語には、世に対する頭を回して、眼を道の方に向けるという意味、即ち俗を脱するという意味があるからである。ここにおいて広寧は起って拝礼し、店を閉じて重陽に随い、穏やかに話を交わす。石を水に投じるようにぽつりぽつりと往来で問答をする。広寧は詩を献じ、その句に云う、
同席の諸君 太古を楽しむ、
未だ明らかにせず 黒白(こくびゃく)希夷(きい)の路を。
重陽が答える詩の句に云う、
足間翠霧 接し来(きた)る時、
日に要す 先生 清静の句。
これより広寧は、重陽に師事することを思い、翌年の三月、遂に世を棄てて弟子となる。重陽は広寧に大通の法名を与え、号を広寧子とさせる。大定七年、広寧が初めて重陽に会った時は、年二十八。(⑧につづく)
注解
・達磨:中国の禅宗の開祖とされているインド人仏教僧。
・慧可:中国の禅宗の第二祖。正宗普覚大師。
・馬従義:馬丹陽。王重陽の七人の高弟(七真)の一人。全真教の事実上の第二祖。
・五行の及ばざるところ:古代中国では自然界は木・火・土・金・水の五行からなると考えていた。そのそれぞれに色を象徴させると青・赤・黄・白・黒となり、季節を象徴させると春・夏・土用・秋・冬となり、方角を象徴させると東・南・中央・西・北となる。即ち五行の及ばざるところとは、即ちそれ等が現われる以前の状態。天地開闢以前。
・父母未生の時:自分も父母もまだ生まれていない時。
・威海衛:中国の山東半島にある港。
・黄向:中国・後漢の預州の人。ある時道端で黄金の入った袋を拾ったが、彼は持ち主を捜してこれを返したと云う無欲で正直な人。(黄向訪主の話)。
・麻姑:中国の伝説上の仙女。鳥のような長い爪を持つという。
・軸頭:俗語か?。文脈から屠殺人としてみた。
・機縁投合:教えを受ける者の根機(思い・素質・能力)と教えに触れる因縁が合致。ここでは教えを求める思いが縁に合う。
・迦葉:釈迦の十大弟子の一人。釈迦の後継者(仏教第二祖)とされる。
・有道の人:正しい道を得ている人。
・丘処機:丘長春。王重陽の七人の高弟(七真)の一人。
・玄機契合:道の思想が一致。
・ジンギスカン:チンギス・ハン。モンゴル帝国の初代ハン(皇帝)。
・郝広寧:王重陽の七人の高弟(七真)の一人。
・黄帝:道教の教祖とされていた。
・老子:道教の開祖として知られている。(前出)
・荘子:中国・戦国時代の思想家。道教の始祖の一人とされている。
・列子:中国・戦国時代に活躍した道家の思想家。
・仙骨:仙人の素質。
・回頭:頭を回らして新たな向きに眼を向ける。考えを変える。