幸田露伴の小説「幽情記③ 楼船断橋」
幽情記③ 楼船断橋
竹枝(ちくし)の調べは、もと巴蜀(はしょく)に起こる。その竹枝というのは歌う時に人が唱和するのに竹枝と女児の合いの手を以ってするからである。唐の皇甫松(こうほしょう)の十四字体を示せば、次のようである。
山頭の桃花(竹枝) 谷底(こくてい)の杏。(女児)
両花窈窕(ようちょう)(竹枝) 遥かに相映ず。(女児)
(山の上の桃の花(ハイハイ)、谷の底の杏の花(ヨイヨイ)。両花淑やかに美しく(ハイハイ)、遥か離れて互いに映える(ヨイヨイ)。)
また同じ人の二十八字体を以って云うものは
門前の春水(竹枝) 白蘋(はくひん)の花。(女児)
岸上に人無く(竹枝) 小艇斜めなり。(女児)
商女経過して(竹枝) 江(こう)暮れんと欲す。(女児)
残食(ざんし)を散抛(さんぽう)して(竹枝) 神鴉(しんあ)を飼う。(女児)
(門前の春川の流れ(ハイハイ)、白い水草の花(ヨイヨイ)。岸の上には誰もいなくて(ハイハイ)、小舟は斜めに上る(ヨイヨイ)。舟中の伎女は通り過ぎ(ハイハイ)、河は暮れようとする(ヨイヨイ)。食べ残しを撒き散らし(ハイハイ)、烏の餌にする(ヨイヨイ)。)
このようである。それなので竹枝・女児は我が国のおけさ節のホイノ、ヤットカケノと云い、追分節でソエソエと云うようなもので、別に意味のない囃しの声であるが、蜀の地方に竹枝・女児の合いの手で歌に合わせる習慣があるので、詞人がたまたま蜀の風景情緒を云うものを竹枝と云うようになって形式の名となる。それなので唐の人の作る竹枝は全て蜀の事を言うが、すでに形式の名となってからは竹枝の名の意味は変化して、里謡俗歌とか、その国振りの詩と云うようなことになって、その後の人はその形式によって各地で之を作り、某州竹枝・某城竹枝などと云うようになったという。竹枝の体裁は、或いは七言絶句の詩のように、或いは拗体(ようたい)の絶句のように平仄に拘らず、またその趣(おもむき)は情を述べ、技巧的で放蕩でしかも心が広く温かなことを尚ぶので、堂々とした風雅な作ではないが、才子才媛でなければ容易に作ることはできない。
元末から明初にかけての才人に楊維禎と云う人がいた。字(あざな)は廉夫、鉄崖道人と名乗る。山陰の人である。母が月中の金銭が懐に入る夢を見て生まれ来る。若年から聡明であったので、父はこれを大器として、楼(ろう・二階家)を鉄崖山に築き、楼の周りに梅を植え、数万巻の書物を集め置き、その楼の梯子を外して五年、二階で誦読させる。こうして維禎は学識成って、元の泰定四年に進士となったが、狷介剛直な性格で物事に逆らうために志が叶わず、やがて世の中が乱れて元が亡びると、世に隠れて詩酒に遊ぶ。明の洪武二年、太祖が需学者を招集して礼楽の書を編纂する時に当って、維禎を招くために翰林院の詹同(せんどう)をさしむけ招致されたが、維禎はこれを辞退して、「死も近い老婦の身で嫁に行く者が有りましょうか」と云う。翌年再び帝が役人を使わして篤く招聘されたので上京したが、編集の概要が決まると辞職を願い出る。帝も維禎の、「帝が私の得意なところを尽させて、不得意なことを強いなければ良いのだが、それでなければ海に入って死ぬだけだ。」と云う言葉を知って、留めることなくその辞職を許した。明の大儒学者宋濂(そうれん)が「その山へ還るを贈る」の詩の句で、「受けず君、五色の詔(みことのり)、白衣(庶民の着る白色の衣)にして宣せられて至り白衣にして還る」と云うのも、この維禎の行為を気高いとしているのである。鉄崖(維禎)は実に才人にして高士であると云うべきである。
鉄崖は詩を能くし、名は当時に栄えていわゆる鉄崖体の名を起こす。頼山陽は日本楽府を著わして鉄崖の古楽府を論じて言う、「新異なところは好いが、しかしながら体裁を整え、時に牛鬼蛇神(ぎゅうきじゃしん)を差し挟んで人を幻惑する、その内容は浅易で明の楊慎の二十一史弾詞と相違が無い」と云うが、その評価は甚だ過酷である。二十一史弾詞と相違が無いとは山陽も少し言い過ぎている。張簡の師の長雨は鉄崖の古楽府を称えて、「杜甫・李白・李賀などの唐詩を手本に学んで、ところどころ後世に残る金石(貴重で堅固)の詩が有る。」と云う。また宋濂は、「鉄崖の詩は、心を烈しく揺さぶり、詩の言葉には神の心がやどる」と云う。長雨と宋濂の言と山陽の評の隔たりは大きい。思うに山陽の気持ちは鉄崖等を圧倒して之を凌駕したいとするもので、その鉄崖を認めないことは、滝沢馬琴が武部凌岱や井原西鶴を認めなかったのと同様に公正な論とは言えない。
鉄崖は詩を能くし、文を能くし、書を能くし、音楽を能くし、好んで鉄笛を吹く。聶大年(じょうたいねん)の「廉夫集」の詩の句に、
金鉤 夢は遠くして 天星墜ち、
鉄笛 声は寒くして 海月孤なり。
(金の帯留めの、夢は遠く叶わずして、天の星は墜ち、鉄笛の、音は寒くして、海上に月は孤(ひと)り。)
の一聯は、転生の異兆と入雲の妙音を云う。戦乱を避けて松江(しょうこう)に居た頃に囲っていた侍女の草枝・柳枝・桃枝・杏枝の四人は皆音楽と舞踏を能くした。鉄崖はこれ等の侍女と共に常に遊覧船に乗って、思いのままに過ごしたという。笛声・歌声・琵琶の声・檀板の声・山容・水容・含笑の容・起舞の容・詩興・酒興、一種豪快で傲慢な風格の風流人が、天下乱れて治まらず、国破れて遂に救い難い当時に在って、蕩然と思いのままに過ごす状景を思い浮かべるが善い。鉄崖の鉄笛を名付けて鉄龍と云う。又、たまたま蒼玉(そうぎょく)の簫(しょう)を得て名付けて玉鸞(ぎょくらん)と云う。鉄崖の友の顧徳輝(ことくき)に玉鸞謡(ぎょくらんよう)の七言の古詩があるのはこのためである。鉄崖の一生は当時の俊才の仰ぎ見るところであった。その友には李孝光・張羽・倪瓚・顧徳輝・卞思義・郭翼ら著名人が多い。これ等の人の著作を読めば鉄崖を知るのに参考になることが多い。鉄崖の著書、「東維子集」三十巻の文は無駄な修飾がなく読みやすく分かりやすいと云う。 宋濂は称えて云う、「その論撰は、殷の食器や周の酒器によく見る寒芒(かんすすき)の横溢する青銅器の文様のようである」と、「古楽府」十巻と「楽府補」六巻は論者が思うに、或いは後人の謗(そし)るところとなっても、その俗事にわずらわされない格別な詩文は、捨て去ることの出来ない文である。」と、要するに鉄崖は一代の雄である。詩文悉く敵の攻撃するところとなっても、その容れられないところにその大を見るべきである。
鉄崖は元末の繊細で浮靡(ふび)な詩格を嫌い、これを正して過ぎるほどであったので、竹枝のようなものを作るのは本来あり得ないことであるが、そこは才人は多情で、その為すところは屡々人の意表に出て西湖竹枝数章を作る。今その三章を記す。云う、
郎(ろう)に勧む 上(のぼ)る莫(なか)れ 南高峰、
我に勧む 上る莫れ 北高峰。
南高峰の雲 北高峰の雨、
雲と雨と相催(あいもよお)して儂(われ)を愁殺す。
(貴方、北高峰に上らないでください、私も南高峰に上りません。南高峰の雲と北高峰の雨、雲と雨は共に生じて私を愁殺する。)
湖口の楼船 湖日陰(くも)り、
湖口の断橋 湖水深し。
楼船に柁(かじ)無きは 是(これ)郎が意(こころ)、
断橋に柱有るは 是儂が心。
(湖口の屋形船の辺りの日は陰り、壊れた橋の辺りの湖水は深い。船に柁が無いのはコレ貴方の意(こころ)、橋に柱があるのはコレは私の心。)
石新婦(せきしんぷ)の下(しも) 水 空に連なり、
飛来峰(ひらいほう)の前 山 萬重(ばんちょう)なり。
妾(わらわ)は死して甘んじて 石新婦と為らん、
郎に望む 忽ち飛来峰に似んことを。
(石新婦下の水は空に連なり、飛来峰前の山は幾重にも重なる。私は死んで喜んで石新婦になろう、貴方に望む今直ぐに飛来峰となって帰り来ることを。)
南北の峰・楼船断橋・秦王纜石の石新婦・一朝飛来の飛来峰は皆西湖にあるもので、花に烟(けむ)る土地の情趣、温かく柔らか郷の風景が画の様に現れて、未だその郷を知らない、その地を履まない異邦の人にも、楼に上って目前にするような思いにさせる。まして当時の佳人才人はどれほど心を動かし懐(おもい)を蕩(と)かされたことか、唱和する者が多数いたと云う。その中に呉郡の薛(せつ)氏の二女、蘭英(らんえい)と蕙英(けいえい)と云う者がいた。鉄崖の竹枝を見て打ち笑って、西湖に竹枝があるなら東呉にも竹枝はあると、その体裁を真似て蘇台の竹枝詞十章を作った。
百尺の楼台 碧天に倚(よ)る、
闌干 曲々 画屏連なる。
儂(わ)が家 自(おのずか)ら有り 蘇台の曲、
西湖に去って 采蓮(さいれん)を唱(とな)えず。
(高い楼台は青空の中に、闌干はくねくねと画屏のように連なる。我が家には、自然な蘇台の曲があるが、西湖では采蓮を歌わない。)
楊柳(ようりゅう)青々 楊柳黄ばむ、
青黄 色を変えて 年光(ねんこう)過ぎる。
妾(われ)は似たり 柳絲(りゅうし)の憔悴し易きに、
郎は如(に)たり 柳絮(りゅうじょ)の太(はなはだ)癲狂なるに。
(楊柳は青々とし、やがて黄ばみ、青と黄と色を変えて一年の風光は過ぎる。私は憔悴し易い柳糸に似て、貴方は甚だ癲狂な柳絮に似る。)
姑蘇台の上 月団々たり、
姑蘇台の下 水潺々(せんせん)たり。
月は西辺に落つるも 時有って出づ、
水は東に流れ去って 幾時か還えらむ。
(姑蘇台の上に月は丸く輝き、姑蘇台の下に水はよどみなく流れる。月は西辺に落ちても時が経てばまた出る。水は東に流れ去っても何時かはまた還える。)
余りは今これを省略する。鉄崖は薛女(せつじょ)の詞を見て大いにその才能を愛し、二詩の後に詩を書いて賞賛した。その一を記す。
云う、
弟(てい)たり難く兄(けい)たり難く 並びに名あり、
英々 端(まさ)に瓊々(けいけい)に譲らず。
好し筆底春風の句を將(ひき)いて、
譜して作(な)さん瑤(たま)の箏(こと)の絃上の声と。
(弟たり難く兄たり難く並んで名があり、正に美花と美玉は共に譲らない。ヨシ筆底に春風の句を抽きだして、譜して作ろう瑤(たま)の箏(こと)の絃上の声を。)
人はすでに、鉄崖によって耳を新たにし、また薛女に目を瞠(みは)る。また銭塘の子女の曹妙静(そうみょうせい)と云う書を能くし琴を能くする者が更に和して云う、
美人 絶(はなは)だ似たり 董嬌嬈(とうきょうじょう)に、
家は住む 南山の第一橋に。
肯(がへん)ぜず 人に随って湖を過ぎり去るを、
月明に夜々 自(みずか)ら簫(しょう)を吹く。
(美人、絶(はなは)だ董嬌嬈(とうきょうじょう)に似る。南山の第一橋の家に住む。 人の勧めにあっても湖を去らず、夜々に月明の中で自(みずか)ら簫(しょう)を吹く。)
第三第四の句、暗に自ら高く持す。鉄崖がこれに答える詩が有る。また同じ銭塘の張妙清と云う詩を能くし音楽を能く知る者も鉄崖に和す。今は煩雑を嫌ってこれを記さないが、鉄崖の一唱に唱和する者が並び起こり、ただ才子が風流を競うだけでなく、佳人(かじん)が慧思(けいし)を湧かせて、韻雅の話題を今に遺す。楊升庵は「丹鉛総録」巻二十に記す。「鉄崖の竹枝詞、一時和する者五十余人」と、鉄崖の竹枝詞が世の中の視聴を大いに動かしたことが思われる。以後西湖に遊ぶ者はともすれば真似て竹枝を作る。明の黄周星(こうしゅうせい)の詩に、
競いて西湖に向(むか)いて 竹枝を詠ずる、
廉夫も是(これ) 情癡(じょうち)に殢(くるし)めらる可し。
(競って西湖に向(むか)い竹枝を詠ずる、廉夫もコレでは情癡に苦しめられよう。)
の句がある。楊維禎(鉄崖)の当時の風流が伝わって幾百年も経つ。詩が人を感じさせること実に深いものがある。
(大正四年十一月)
注解
・巴蜀:中国の四川省地方の異称。
・皇甫松:唐の詩人。
・拗体の絶句:平仄(ひょうそく)の合っていない絶句。
・楊維禎:中国・元明代の詩人。
・翰林院:国家学芸院。
・詹同:中国・元末明初の官僚で儒学者。
・頼山陽:江戸時代後期の歴史家・思想家・漢詩人。
・聶大年:明の詩人。
・董矯饒:董矯饒については古来明解がない。矯饒は美しくなまめかしいさまなので、董美人とでもいうのか。
・楊升庵:楊慎、字は用修、号は升庵。明の文人。