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幸田露伴の史伝「活死人王害風⑩」
丹陽の入道の日に、ひとりの人が突然重陽を訪れる。この人が王玉陽である。前の翰林直学士姚燧(ようすい)の撰するところの「王宗師碑」に云う、「真人は王姓で、名は処一、寧海の東牟の人、七歳にして病なくして死に、復(また)生き返る。これにより死生のことを知る。後に人が大石に坐すのに遇い、撫首(ぶしゅ)されて共に言う(親しく語り合う)。また空中の神が自ら玄庭宮主(天界の主)と名乗るのを聞く。帰って、そして素足にボロ服姿で市中を狂い歌う。人はこれを見て病気で気が狂ったと云い、また知っている人は病気ではないと云う。大定八年、年二十七、重陽が州に来ると聞き、弟子の列に加わることを願う。重陽がこれを認めて今の名を与え、崑崙の烟霞堂に伴い共に居らせる」と。後に深い谷に臨む崖の上に片足で立って、鉄脚仙人の称号を得た者である。その為すところは跋伽林(ばっかりん)の苦行者のようであるが、意志の強固なことを知る。また伝えて云う、「嫉妬する者に毒を飲まされたが死ななかった」と。大定二十七年には、金の世宗が玉陽の道に明るいことを聞いて、呼んで教えを乞われたと云われる重陽門下の一傑である。その詩詞集の名を「雲光集」と云い今も亡びずに伝わる。その風趣を推察するがよい。
すでに道に入った馬丹陽は、勇猛奮迅し、熱心に修行する。その勢いには、思うに、朝(あした)に道に進めば夕(ゆうべ)に死んでも構わない、とするものがある。そこで、崑崙の烟霞堂に登り修行三昧に入る。突然急に頭痛がして頭が裂けそうになる。人は云う、「馬公はもはや保(もた)ないだろう」と。重陽は云う、「吾は三千里外(仙界)にこの人を化導した。であるから死なせても可(よ)い」と。そして水に呪(まじない)をかけ、之を与えて云う、「およそ人が道に入れば、酒気や色気や財気を禁じ、攀念や援念や愛念を禁じ、思い悩むことを禁ずる、この他に良薬は無い」と。丹陽を清く安らかな、落ち着いた、滞りの無い、暗闇の中に明るさを見出せる境地へと導く。丹陽は水を受け、教えを奉じて、寂莫とする中で気を煉り神(しん・心)を修めて、遂に進火退符の修行が成り、甘露霊泉の象(しょう・形)を現わして、性命双円(性命双修の完遂)を立証するに至る。丹陽が病を得てまさに死のうとしたのは、これは思うに、まさに丹道が成ろうとするに当たって多く起こる現象であり、ここに至ると英雄気質の男でも多少の間違いを起こすものである。龍刀騰(あが)って泥丸に至る(内丹の気が昇って脳に作用する)に及んで、波湧き火閃き、乾坤(天地)砕けんと欲し、一身冷えて死体の如く、気息まさに絶えようとなる。そのため必ず師父(指導者)の力を借りる。既に重陽は丹陽の師父である、丹陽は重陽を頼って修行が成ったのである。ここ一番の激風暴雷が一挙に襲いかかるような境地を経た後に、性と命の全真の奥義に到達するのである。何故(なぜ)か世の学問思索の人は、狭い領域の中で時間に追われ、しかも悟らず、役にも立たない知識の量を比べては高遠幽深とし、始めた時間を問われ、領域の範囲を詰(なじ)られ、茫然として一言も無い。それとは異なり神仙の家風は、領域を自在に遊び、時間を超越し、障害とするものは無い。
この年の二月末日、重陽は丹陽・長春・長真・玉陽を引連れて崑崙に烟霞堂を開き、ここに住む。三月、郝広寧がやって来て従う。八月になると、五人の弟子を率いて文登県の姜実庵(きょうじつあん)に移って之に住み、七宝会を創立して多くの人を済度する。一・二月経つと、重陽の徳を聞いて教えを乞う者や、門人になろうとする者が次第に多くなる。重陽は、或いは罵り或いは鞭打ち之を錬磨する。そのため来る者も多いが去る者も多い。能く精進する者は丹陽・長春・長真等数人だけである。烟霞堂を開くに当たっては石を採って材としたが、突然巨石が抜け落ちて人は皆驚き恐れる。重陽が勇威を振るって大喝すると、石は高々と空中に止まる。驚き恐れた者は歓呼して感謝し、遠近の者は驚服したと云う。若し巨石が止まらずに重陽を圧殺したならば、重陽を尊敬する者も離れ去って、重陽を侮ったことであろう。残念ではないか巨石が止まるとは、勇威大渇もまたまた騒がしい事ではないか。碑文に記して云う、「重陽或いは瓦を餐(さん)し石を餐す」と。石を食すことは狂人も之を能くする、別に不思議ではない。また記す、「重陽は時に二首を現わし庵中に坐す」と。二首を現わすのは双頭鬼の形である、別に珍しくない。また記す、「人が重陽を引き留めて食事させると予(あらかじ)め食単(しょくたん・献立)を云う」と。食単を予知(よち)することなどは町中(まちなか)の少年でも少し利口な者は之を能くする、必ずしも至道者に限ったことではない。記して云う、「神通応物(自由自在に物に応じること)は、挙げ尽くすことはできない」と。神通応物は子供でも之を能くする。芋を食らい、粟を食らい、米麦を食らい、水を飲んで、之を切れば即ち痛み、之を撫でれば即ち感じるようにして、身体を成長させて来たのである。これがどうして「至妙至霊・神通応物では無い」と云えようか。およそこのような事によって重陽を伝えるのは、むしろ重陽のために避けるべきであると思う。
九年、王玉陽は重陽のもとを去り、査山(さざん)に隠れ住んで独り修練に専念する。四月、寧海の周伯通と云う者が庵を建てて金蓮堂と名付け、重陽を迎える。重陽は丹陽・長真・長春・広寧を引連れて遷る。その途中の龍泉に於いて、重陽は手にしていた范明叔の油傘(ゆさん)を空に放り投げる。傘は風に乗って舞い上がり、ひらひらと査山の玉陽の住む雲光洞の前にと舞い墜(お)ちて、その壊れた柄の中に竹陽子と道号が書かれてある。玉陽に約束していた別号を選んで贈ったのである。竹は今ただ音(おん)を借りる、字は人下に六人の字があり、無論字書にその字は無く、重陽が選んだものである。傘の舞い上がる処と雲光洞は二百余里も離れている。人は皆驚異する。後日玉陽は重陽を訪れて感謝する。重陽は詩を贈って、云う、
修行の事理 記する丁寧にせよ、
只(ただ)要す 心中 静裏に明らかなるを。
眼外 生ぜずんば 龍自ら住し、
鼻門 閉ずる無くんば 虎常に停(とど)まらん。
舌根に味わいを退(しりぞ)けなば 心神爽やかに、
耳内に声を除かば 腎水清(す)まん。
南北 混融して 一処に帰し、
東西 交媾(こうこう)して 三彭(さんぼう)を滅す。
木金 厮秘(あいひ)して 盤桓(ばんかん)として住(とど)まり、
嬰奼(えいた) 相随って 自在に行く。
結んで金丹を作(な)して、
五光射透せん 彩雲の棚。
悉(ことごと)くこれ丹道の秘事であり、関係のない者にあっては譫言(うわごと)のようだが、少し道門を知る者にあっては、これは真訣である。これより玉陽は精煉に励み、丘長春が褒め称えて「九夏の陽を迎え立ち、三冬に雪を抱いて眠ると」云ったように、奮励刻苦して終(つい)に道を得たのである。人下六人の字などは、重陽の選ぶところ甚だ馬鹿げたことのようだが、字はつまり七人を表して金蓮七朶の数を示す。元来道家の文字は、世の伏羲(ふくぎ)の書象(書契)や蒼頡(そうけつ)の造字の説とはその伝わるところを異にして、三元八会、八角垂芒、文字自現の論がある。道士が字を造るのは梁の陶弘景の「真誥(しんこう)」等を始めとして既に之はある。太公陰符経(李筌の陰符経とは異なる)などは一面が異字だらけで、うっかりこれを開くと棘や石粒に眼を射られたような感覚におちいる。
重陽が金蓮堂に入ると、夜なのに神光が照り輝いていて昼のようである。人が驚いて火災かと思って駈けつけて見ると、金蓮堂の中にはただ重陽が居るだけである。寧海はもとは海に近く井戸水は総べて鹹(しおから)い。重陽が庵の井戸に呪(まじな)いをかけると水が変って甘くなり、今もその恩恵を被っていると云う。ここに於いて三教金蓮会を建立し、また福山県に行き三教三光会を建立する。文登の七宝会と共に重陽が当時建立した会の多くは、毎月一人当たりし四文の銭を出させたものか、重陽の金蓮会の詩に「遂四文月十六字」の句が有るので、それに拠ってそう考えることが出来る。また登州に行き三教玉華会を建立し、莱州に行き三教平等会を建立する。以上三洲の五会は総べて三教の名を冠る。これは皆重陽の覚世の伝道機関であり、儒教からは「孝経」を取り、仏教からは「心経」を取り、道においては「道徳経」を基本にし、三教を偏ることなく四海を一家にしようとすることから、三教と標榜するのである。金蓮社の疏(そ・主張の文)や玉華社の疏は「全真集」下巻に出ており、三洲五会の三教化縁の榜(ぼう・告知の文)は「教化集」に出ている。大略は傍門(わきみち)や小径(こみち)に由らずに、抱元守一し、仁を修めて徳を積ませることを主目的とする。その言に奇異なところは無いが、奇異の無いところが却って世を導いて善に誘(いざな)うと云える。(⑪につづく)
注解
・王玉陽:王重陽の七人の高弟(七真)の一人。
・王宗師碑:玉陽体玄広度真人王宗師道行碑
・撫首されて:首を撫でられるとは、親しくされたと云うことか。?
・玄庭宮主:玄庭宮とは道教に於ける天界のことか。?
・跋伽林の苦行者:釈迦が未だ太子であった時に跋伽林で出逢った苦行(修行)する外道(異教徒)たち。或る者は足を挙げて何日も降ろさない、或る者は地面に伏したままと様々な形を取って苦行(修行)している。
・三千里外:遥か彼方。仙界?。
・進火退符の修行:内丹術とは天地万物の構成要素である気を養うことで、自己の身中に神秘的な霊薬である内丹を作り、身心を変容させて道(タオ)との合一を目指すものであるが、その中の進火退符は気息を調える過程である。
・甘露霊泉の象:道との合一が成ったということか。
・神通応物:自由自在に物に応じること。
・伏羲:中国の古代神話に登場する帝王の伏羲は、文字の無かった時代に初めて書契(文字)を作ったとされる。
・蒼頡の造字:中国の古代、黄帝の史官蒼頡は漢字の母体となるものを開発したとされる。
・三元八会の論:三元八会は道教用語で、倉頡が文字を作る前に三五妙気から凝空してできた「云篆」「天書」を指す。文字の根源としてされている。
・八角垂芒の論:蒼頡の文字とは異なる古代の書法による文字。
・文字自現の論:文字は自(おの)ずから現れるということか。?
・陶弘景:中国・六朝時代の医学者・科学者であり、道教の茅山派の開祖。
・遂四文月十六字の句:一文銭の字数は表裏で四字、それが毎月四枚なので十六字になる。
・金蓮社の疏:金蓮社の主張文。
・三教化縁の榜:全真教は道教・仏教・儒教の三教を化縁(共通化)して成るという告知文。
・抱元守一:道教では一は道であり精神であるとされている。心中の雑念を排除し、心神を清静に保ち、この一を守って身を修める修養法。