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幸田露伴の史伝「活死人王害風⑨」
馬丹陽、馬丹陽、これはこれで一豪傑である。重陽は丹陽を教化しようとするが容易ではない。重陽の「全真集」や「教化集」や「十化集」等を見れば、重陽の老婆心の甚だ切実なことを知り、丹陽の強剛不屈なことを知る。丹陽が未だ道に入らなかった時、夢で重用に従って山に入る。朝になり重陽が呼んで云う、「山侗(さんとう)」と。従義は重陽が自分の夢を知ることにビックリして、驚く。丹陽が時に自分を山侗と称し、重陽が時に山侗と丹陽を呼ぶのは、これから起こる。また重陽は嘗て或る人に云う、「馬公は道を破る」と。人は云う、「先生は何を以てそれを知るか」と。応えて云う、「昨日、馬公は大酒を飲む」と。人がこれを尋ねると従義は云う、「昨日、薬を飲むのに酒を用いたが、うっかり量を過ごした」と。重陽が丹陽を視ること全てこのようである。丹陽が遂に道に入る原因である。丹陽の妻の孫氏は道を尚ぶけれども、しかし家業を捨てることができない。当時重陽の孫氏に贈る詩に云う、
二婆 猶自ら 家業を恋う、
家業 誰か知らん 銭を壊了(かいりょう)するを。
若し是れ 家に居りて 常に旧に似たらば、
馬公は 分の神仙と倣(な)る無からん。
二婆とは孫氏のことである。馬家の第二子である従義の妻を云う俗称である。また云う、
二婆は 只識(ただし)る 世間の居を、
識らず 蓬瀛(ほうえい)に 玉壺(ぎょくこ)有るを。
若し肯(あえ)て 回頭して 覚悟を修めば、
名は伝えて 永々に 仙姑と喚(よ)ばれむ。
孫富春もまた遂に回頭して世を棄てて、夫の従義が道に入った。翌年の大定九年重午(ちょうご)の日(五月五日)に金蓮堂に詣でて出家し、名を不二と改め清浄散人と名乗るようになる。重陽の道を伝える唯一の女仙である。その著わすところの「孫不二君法語」は今に遺り伝わる。詞気清温で、正にこれ女仙の語である。別に「丹道秘書」三巻がある。「孫不二君法語」と同様に数葉の小冊であり、多く云うこともないが、これもまた馬丹陽の縁者であることを示すものと云える。詞に云う、
白鶴に乗ぜず 鸞に乗ずるを愛す、
二十の幢幡 左右に盤(めぐ)る。
偶(たまたま) 書壇に入りて 尋(つい)で一笑す。
降真香は繞(めぐ)る 碧闌干。
また一章、
小春の天気 暖風賖(おぎの)る、
日は照らす 江州処士の家。
催し得て 蠟梅 先ず蕊(しべ)を迸(はし)らす、
素心に人は対す 素心の花。
丹陽夫婦は心を重陽に帰依する。丹陽を度(ど・教化)すことができて、道法に驀進(ばくしん)させた時の重陽の喜びを知るが善い。丹陽もまた意を決して道に就く、烈決の意気は金石をも貫こうとする。重陽は丹陽に誓状を焼かせて、二度と世間を思わないようにさせる。時に詩があり、云う、
金鉤を擲下(てきか)して 恰も一年、
方(まさ)に香餌を呑んで 綸(いと)の牽(ひ)くに任す。
玉京山上 鵬と為(な)りて化さば、
我に随って 扶揺して 洞天に入らん。
丹陽が韻を継いで云う、
風仙 我を化して 已に年を経たり、
悟徹して 鉤を呑んで 線の牽(ひ)くに任す。
本師に 参従して 雲外に去り、
功成りて 決して上(のぼ)らん 大羅の天。
また丹陽は重陽の「一別終南」の詩に継いで云う、
遇うを得ぬ 常に帰すべし 劉蒋村に、
妻を黜(しりぞ)け 妾を棄て 児孫を屏(しりぞ)く。
攀縁 割断して 雲遊し去り、
誓って 眸(ひとみ)を回(めぐ)らして 旧門を望まざらむ。
また云う、
鄽市に居らず 村に居らず、
妻男を憶わず 孫を憶わず。
志 環墻に在りて 大道を修め、
玉戸を 斡開して 金門に入らむ。
また当時を述懐する詩が丹陽の「洞玄金玉集」に載る。その一に云う、
身は 儒門に在る 三十年、
知らざりき 一字の大なること天の如きを。
偶(たまたま) 風仙の理に悟徹するに因(よ)りて、
頓(とみ)に覚(さと)る 霊明の 大千(たいせん)に満てるを。
その二に云う、
虚無 浩渺(こうびょう)たり 神仙の国、
鬱屈 穹窿(きゅうりゅう)たり 自己の天。
白日 清間 冗事なし、
丹霄(たんしょう) 出入して 飛煙を駕(が)せん。
その三に云う、
逍遥 自在 三千の客、
担蕩 無拘の 一散仙。
清浄にして 幹開す 壺内の景、
無為にして 踏砕せん 洞中の天。
丹陽が道に入る、時に年四十六。その著わすところの「洞玄全玉集」二巻、「漸悟集」、「丹陽語録」等、及び重陽と応酬を記す「重陽教化集」、「分梨十化集」等を読めば、丹陽の藻詞や学問をほぼ推察できる。年すでに四十六、思慮まさに熟し、また多くの経歴を積む、この時に当たって巨万の富を棄てて、妻子を棄てる。どうして世の人の理解するところであろう。重陽の道に必ず、深くその心を動かすところがあって、そしてその後に決心するところの有ったことを知るべきである。長春が初めて重陽に帰依したのは、年二十の時であり、聡明絶倫といえども未だ錦鱗(きんりん)の小魚であり、簡単に金鉤(きんく)を呑む。丹陽が重陽に遇った時は年四十五、学問は腹に満ち、経歴が身に着いた玄鱗鉄翅(しげんりんてっし・黒いウロコに鉄のヒレ)の老練な大魚である。何で簡単に鉤(はり)を呑んで綸(いと)に牽かれよう。丹陽の道に入ったことを観て、重陽の内に蓄えられたものが、唯の空理大言で無いことを察すべきである。
元曲の馬東籬(馬致遠)作「王祖師三度馬丹陽」は、この王重陽と馬丹陽のことを叙して、重陽の出神入夢のこと、分梨賜芋のこと、遂に点化して道に入らせる等の話を取って劇にしたものである。
入夢の事は能くするが善い。人の心は知るが善い。人の夢の何で知れないことがあろう。巫覡(ふげき)の輩は、ただ僅かに浅近の術を得る者でも人の胸中の消息を得る。古(いにしえ)の婆羅門(バラモン)が、「南陽の中国師が心中で天津橋上で猢猻(こそん・猿)を観た」と見破ったのは、今に伝わる話であり、多くの人の知るところである。他人の心中を想像して知るのも善い。夢の中の光景も知り難くは無い。ただこのような事は、思いを深奥に及ぼさない者であってはもちろん信じることはできないし、また強いてこれを信じさせようとするのも、無用で至難なことである。ただこのようなことが伝わると云うだけで、止めることとする。(⑩につづく)
注解
・回頭:頭を回らして新たな向きに眼を向ける。思いを変える。(前出)
・元曲:中国・元の時代の雑劇。
・馬東籬:馬致遠、東籬は号。元曲の作者。代表作「漢宮秋」などがある。
・バラモン:バラモン教徒。バラモン教はインドの民族的諸宗教の総称。
・古のバラモンが、南陽の中国師が心中に天津橋上で猢猻を観たことを見破った話:古のバラモン(大耳三蔵)と南陽の中国師(大証国師・南陽慧忠)の問答。(「正法眼蔵」・心不可得)。