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幸田露伴の史伝「活死人王害風⑤」

 重陽が俗界を離れて窟(あな)に入るのは、勿論再び地上に出て徒(いたずら)に日の下で遊ぶことを望まずに、得るところが無ければ死んで仕舞う覚悟である。そのため土窟を、自らが身を横たえて骨を埋める処とする。そのためこれを名付けて家とはしないで墓とする。自ら墓の傍らに高さ数尺の塚を築き、上に一ツの方牌(ほうぱい・四角い位牌)を掛けて、牌に王某霊位の字を記す。墓の深さ一丈余り、長物は置かず、兀然(こつぜん)とひとり起居し、自ら活死人と名乗る。墓の四隅にたまたま有った海棠を四株植えて標識とし、「吾は将来、四海を教化して一家を成して見せる」と笑って云う。
このようにして、死坐して旬日に及び、乞食(こつじき)しては一時を凌ぎ、自ら歌って云う、

活死人兮 王嚞 乖(かい)なり、
水雲 別に是れ 一懽諧(いちかんかい)。
道名は 喚(よ)んで作(な)す 重陽子と、
謔号は 称して為す 没地埋(ぼつちまい)と。
活死人兮 活死人、
行果を談ぜず 因を談ぜず、
墓中 自在にして吾が意の如くし、
占め得て 逍遥 六塵を出ず。

又云う、

活死人兮 活死人、
公の与(ため)に 今日 洪因を説く。
墓中 独り死するは 真に嘉話、
枕を並べ 棺を同じくするも 悉(ことごと)く塵と作(な)らん。

又云う、

活死人兮 活死人、
活中に死を得るは 是れ良因。
墓中 闃寂(げきじゃく)として 真に虚静、
隔断す 凡間 世上の塵。

又云う、

活死人兮 活死人、
害風は 便(すなわ)ち是れ 我が前因。
墓中の這箇(しゃこ)の消息、
水を出ずるの白蓮 肯(あ)えて塵を惹かんや。

又云う、

外人は識らず 裏頭(かとう)の人、
門より喚(よ)び出し来たらば 此の因を得ん。
明月 清風 我を笑うを休(や)めよ、
這回(しゃかい) 爾(なんじ)に似て 紅塵を遠ざからん。

 この類の詩数十首は皆当時詠んだ詩である。また当時を述懐して詠んだ詩が数十首有る。その一ツに云う、

紫雲 芝甲 始めて先ず萌ゆ、
採り得て来たる時 旋々に烹(に)る。
玉液 瓊漿(けいしょう) 和合し了し、
重楼 咽下して 便(すなわ)ち長生す。

又云う、

修持 如(も)し金丹を識(し)るを会(え)さば、
只(ただ)要す 真霊 本性の全きを。
請う看よ 崑崙(こんろん) 山上の景、
碧霞 光彩 秦川に接す。

又云う、

瑤地(ようち) 裏面に 黄芽を看る、
瓊蘂(けいずい) 金枝 玉花綻(ほころ)ぶ。
朶々 玲瓏(れいろう) 清気上(のぼ)る、
玎璫(ていとう)たる清韵 吾家に属す。 

又云う、

驀然として提往す 這(こ)の元初を、
幻花 方(まさ)に知る 余に属せざるを。
一箇の光明 真了々、
五般の彩艶 目如々たり。

 その詩意は大抵が、自ら丹道に精進すること、人の永く悪徳に堕落するのを哀しむこと、或いは少しばかり丹家の消息を露わすことにある。すなわち重陽が墓中に在って為した事は、丹道における坎離龍虎(かんりりゅうこ)と結丹養胎(けつたんようたい)の工夫に他ならないことを知る。
 墓中に在ること大定元年から同三年に至る。思うに丹道を修め得たものか大定三年重陽五十二の秋、活死人の墓を出てこれを埋めて原(もと)に戻して劉蒋村に遷り、茅葺きの庵を建て之に住む。当時、秦州甘泉県に和徳瑾と云う者が居て、若い時から翰墨(かんぼく・書画詩文)を修め、成長して下級の事務官になる。心ある敦厚高勝の人に遇えば、就いて教えを受けないことが無い。天徳年間、重陽が二道者に遇う十年ぐらい前、徳瑾は地方の人であるが、都に出て官職に付こうと考えていた、或る日突然一人の道者が門前を通り過ぎた。徳瑾が引き止め家に招いて、酒を飲み道を語り合い大いに意見が合ったが、しばらくして去る。その後の或る日、再び道者が臂に梟を擎(かかげ)てやって来て、「この梟は大きな目をしているが人が見えない」と云う。徳瑾はこの人は異人(仙人)に違いないと思い、その郷里と姓名を問うが、応えることなく去る。その後一月余りして再び来て徳瑾の家に滞在したが、癩病(らいびょう)のため身体が膿と血で汚れていて殆んど近寄れない。徳瑾が医者を呼んで治療したが、百薬の効果も無く一年余りで亡くなったので、厚く礼を整えて葬った。また数ヶ月すると一人の老婆が訪ねて来て、「老いの身にただ一人の子があるが、雲水をして家業を顧みない、近頃は貴宅に居ると聞いてお尋ねした」と泣いて云う。徳瑾が「その人は既に亡くなりました」と云うと、老婆は慟哭して已まない。「老身と子のただ二人、今すでに子は居ない、私はどうしたら良いのだろう」と云う。やむを得ず徳瑾は母のように世話をしたが、或る日老婆が、「私は一度墓の中の子の顔を見たい」と泣いて訴える。訴えること数度、徳瑾もこの情を止め難く、終に仕方なくその墓を掘る。するとただ空棺があるだけで屍(しかばね)は無い。愕然として、見ると一幅の秘旨がある。振り返ると老婆は居ない。徳瑾は驚き歎いて云う、「私は今異人(仙人)に遇う、何時までも俗塵の中で無駄に過ごすわけにはいかない」と。終(つい)に妻子を棄てて衣を更えて道に入る。後に和玉蟾(かぎょくせん)と称するのが即ちこの人である。玉蟾は王重陽が異人に遇って道を受け継ぎ、精励刻苦して成功したと聞いて共鳴し、そこで重陽を訪れ、その下で共に道に励んだと云う。思うに玉蟾は重陽を師とも友ともしたのであろう。
 玉蟾の他に李霊陽と云う人が居た。終南県の人であって、聡明敏達で学問も広い。霊陽も天徳年間に異人に遇って教化される。富貴や出世の念(おもい)を断って、自然を経巡り、道を以て自ら楽しむ。生涯その名を告げなかったので郷里の人もその名を知らない。霊陽もまた重陽の道光が外に現れるのを見て、重陽の下で共に住み、鉛汞や龍虎の学(煉丹術)について重陽の指導を受ける。師弟三人は一ツの庵に同居して、乞食(こつじき)して日を送る。元の雲峯寺の僧である祥邁の著わす「弁偽録」巻三に、王重陽が全真経を興した当初の状態を記して、「大衆は三人より聚(あつ)まらず、庵は二屋より構えず」と云うのは、思うに誹謗の言葉でなく実際にそうであったのであろう。徳瑾と霊陽の事は「祖庭内伝」に出ている。重陽等三人が同居した所は、即ち後の祖庭鎮にある重陽萬壽宮がこれである。(⑥につづく)

注解
・丹道における坎離龍虎と結丹養胎の工夫:丹道の内丹の術は瞑想によって丹を体内に生成する段階と、それを体内に循環させて神仙の身体に変容する段階から成る。坎離龍虎は丹を生成する方法、結丹養胎は身体を変容する方法。
・秘旨:秘密の教え。
・異人:特異な人。(仙人)。

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