幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話・飯①」
飯
「和妙類聚抄」は漢語を和名に訳した書である。しかしその書の本意を丁寧に理解して、その記すところを能く調べると、時々小さな間違いに気付くことがある。しかし、人々に能く当時の社会の実相と文化の程度を理解させては、史籍や雑書の類に勝るものがある。同書の飲食部を見ると、「強飯 こはい」とあって、今の「こわめし」であることを知る。「(食+丑)飯 かしきかて」とあり、今の「かてめし」であることを知る。「油飯 あふらいひ」とあり、今の我が国の人がこれをすることは稀ではあるが、支那風にごま油で飯を炊くことが昔に在ったことを知る。「(修+食)饙 かたかしきのいひ」とあり、饙は分である。ひと蒸しした、未だ粘り合わないで、粒々が分かれているような飯があったことを知る。「饘 かたがゆ」とあり、「粥 しるがゆ」とあり、厚い粥や薄い粥のあったことを知る。ただし「飯」の一字を挙げてこれを訳し、これを訓じたものを見ない、なぜであろうか。したがって当時の飯がどのようなものであったかを明らかにすることはできないが、しかしながら稲などの穀類を調べると、「稲 いね」、「早稲 わせ」、「晩稲 ひね」、「稴 みしろのいね」、「米 よね」、「𥻟 もちのよね」即ちもちごめ、「粇米 うるしね」即ちうるち、「(鑿-金+米)米 ましらげのよね」即ち精白米、「粺米しらげうのよね」即ち精米、「糲米 ひらしらげのよね」即ち八分づきの米、「糙米 もみよね、一部で云うからしね」即ち米と殻とが雑じるのである。これ等の文が記されていて、精白の米が既に当時用いられていたことを知る。また器皿部に「臼 うす」、「杵 きね」、「碓 からうす」、「磑 すりうす」を載せている。既に杵や臼・碓・磑などが備わっているのであれば、どんなに精美を求めて止まない勢いがどんなで有ったか。ここにおいて粗から精への階級のあることを示して、「第一 かちしね、もみよね」、「第二 ひらしげのよね」、「第三 しらげよね」、「第四 ましらげのよね」とあるので、貴者は精を食い賤者は粗を食い、老弱と壮健はそれぞれ相応のものを食していたのであろう。平安朝の文明は無論このようであったのであろう。臼は早くは武内宿禰の「そのつづみうすにたてて」の歌の句に出ているので、神代(かみよ)から有るのであろう。思うに人が穀物を食すようになってから、やがて杵や臼が出来たのであろう。易の小過の卦やエジプトの古い画が十分にこれを語っている。杵や臼が一度(ひとたび)出ると、人智は日々に進むので、米麦の取り扱いの何で進歩しないことがあろう。それが粗に止まることなく精になることを欲する。これもまた自然の勢いである。平安朝を離れること遠い中国・晋の劉徽(りゅうき)が注釈する「算書」に、粟・糲・粺・(鑿-金+米)・御米のことを云う、それを見て精粗の階級を知るが善い。「粟の率五十、糲米三十、粺米二十七、(鑿-金+米)米二十四、御米二十一」と云う。それなので粟一斗は糲米で六升のなるのである。粟二斗一升は粺米で一斗二升五十分升の十七となるのである。粟四斗五升は(鑿-金+米)米で二斗一升五分升の三となるのである。粟七斗九升は御米で三斗三升五十分升の九となるのである。米はいよいよ精になり、いよいよ少なくなる。「和名抄(和名類聚抄)」に御米は載っていないが、糲・粺・(鑿-金+米)の順序を見比べて、驚くほどである。それが次第に精になり次第に減じる率は、およそ互いに近いであろう。ただ「和名抄」に記すものは明らかに稲米で、劉徽の注釈書が記す稲米ではない。粟は即ち我が国の「小あわ」で、粟は勿論支那北方の食料の主力である。そのため同書に、「今粟が七斗五升七分之四あり、稲にしようとする、問う、幾らを得るか、答えて云う、稲九斗三十五分之一十四なり」とある。米とは本来粟の実である。粟のその秠(ひ・殻?)を除いたものを米と云う。後には総ての殻の秠を除いたものをも米と云うようになった。我が国では稲米だけを米と云う。そのため粟米と稲米とが混乱して解り難い状況を呈す。支那の古(いにしえ)は、西北の高地では稲田を得ることが少なく、穀食の多くは粟即ち小あわ、梁即ち大あわ、小麦、大麦、黍即ちもちきび、稷即ちうるきび、等に頼る。「詩経」の周頌では豊年多黍多稌と云い、豳風の七月では十月獲稲と云い、「礼記(らいき)」の内則では牛宜稌と云い、「周礼」では稲人を云うが、稲は本来南方の湿地のものであって、江南から江北にかけて能く生じる。黄河以北では人力を多用して、その後に能く稔るのである。我が国は気候温和な豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)なので、早くから庶民も美味な稲を常食としていたことを知っているが、支那においては必ずしもそうでは無い。五穀を数え挙げるだけでも、「礼記」の月例に、「麻・黍・稷・麦・豆」を云って、稲を云わないこともあり、「呂氏春秋」に、「飯の美なるものは玄山の禾即ちあわ、不周の粟、陽山の穄即ちうるきび、南海の秬即ちくろきび」と云って、稲を云わないこともあり、「神農本草」には採録されていないで、別録に初めて採録されているが、これを上中下の下品に分類している。「詩経」の生民では后稷の穡を述べて、稌稲には及ばないとあり、唐人(陳蔵器)の「本草拾遺」のなどには、久しく之を食えば人の身を柔らかくするあり、これは皆支那人が古に於いては、稲を食うことが、我が国のようにはできなかったことを語るものである。稲米の美味はもちろん他の穀物の及ばないところなので、後世は次第に之を常食にする者が多くなったが、劉徽注の「算書」に記載する糲粺(れいひ・(鑿(け)-金(い)+米)米(まい)は、思うに稲米を云うのでは無くて、「和名抄」がたまたま糲粺(鑿-金+米)の三字を取り入れて之を用いたが、我が国の糲粺(鑿-金+米)は彼の国の糲粺(鑿-金+米)と意味は同じだが、その物は異なるとすべきだと思う。ただしその物は異なると云えども、彼我共に早くから精を悦び粗を嫌う勢いが既に生まれる。この千年二千年後の今(昭和十三年頃?)において、世を挙げて素朴な昔に還って玄米を食せとは、これは人情に遠く、行われ難いものがある。孔子は聖人であり、「食は精に厭かず、膾は細に厭かかず」と云う。食の音韻は飯である。精は(鑿-金+米)であり、しらげた米(精米)である。膾は牛や羊や魚の類を先ず大きく切り、それを更に横に切り、葱薤(そうかい)を切り、醯(けい)即ち酢に和(あ)えて食えるようにしたもので、今の人の食膳に上ることは多くないようだが、逆に古に於いては大いに行われていて、「礼記」の少儀や郊特性などにも見え、その後に於いても隋の煬帝が金薤玉膾を賞味したとある。元の雑劇に「切膾旦」の奇曲があり、孔子の時は膾はもちろん日常料理の一品であった。「食は精に厭かず、膾は細に厭かず(飯は精白であるほど良く、肴や肉を切ったものは細く薄いほど良い。)」とは、孔子も食は精を善しとし、膾は細を善しとしたのである。ただ孔子は聖人の気性であって、寛大でやさしい。巧言令色を憎んでいてさえも、「少なし仁」と云って、「仁なし」とは云わない。それだから「欲する」とは云わなで、「厭かず」と云われたのであって、朱子はこの言葉を絶妙に理解する。朱注に云う、「食精なれば則ち能く人を養い、膾粗なれば能く人を害す、厭かずと云うこころは、これを以って善となせども、必ずしもこの如くなるを欲すと云うにあらざるなり(飯の精白は人を能く養い、肴や肉を粗く切ったものは人の食欲を害する、厭かずと云う意味は、それが望ましいが、必ずこのようで無くてはならないと云うのではないのである)」と。孔子は聖人はであるが、日常の生活は常人と変らない、飯は粗米を善しとしない、膾は粗切りを善しとしない、粗米の飯は人の胃腸を疲れさせ、粗末な切り方の膾では葱や薤も混じり難く、調味の味もゆきわたらず、或いは毒の発生もあり、それで精を善しとし、細を善しとするのである。そして、必ずしも精や細に拘らないのが、聖人の日常に対処するところなのである。これで知ることができるのは、孔子が自ら強いて粗食を摂ったり、人に粗食を摂らせようとしたりするようなことが無かったことである。「周書」によれば、「皇帝初めて穀を蒸して飯と為せり」と云う。どうして人が食の精を善しとしないでいられよう。馬ではないのである、豚ではないのである、人が杵と臼の働きを知ってから歳月を経ることこれまた長い、どうして粗米に慣れて精米を疎んずることがあろう、孔子が食は精に厭かずというのも頷けるのである。ただし孔子の摂る食は稲であったか粟であったか、稷か麦か黍か、それを知ることはできない。孔子が弟子の宰我を諭す言葉に、「その稲を食い、その錦を衣(き)て、汝に於いて安きか」という語があることで、父母の喪に服す間は、当時の心ある人は稲米を食さなかったことを知るが、またその語によって、喪が終わった後は稲を食うことがあることをも知る。麦は周の自然が天から贈る穀物である。稷は「書伝」に五穀の長とされている、麦や稷が多く用いられていたことは疑えないが、他の穀物も必ず用いられていたであろう。常時の食の何であるか、はたまた定食があったかどうかも明らかには仕難い。稲・麦・粟・稷のそれぞれに精もあり粗もあり、孔子の「食は精に厭かず」の言は必ずこれは稲であると断言はできない。また孔子が云うところの、「悪衣悪食を恥ずる者は・・」の悪食の食なども、ただの日常的に使われていた言葉として理解すべきである。特別に解釈する必要は無い。その事実を明らかのしようとするのは可(よ)いが、穿鑿しすぎるのはよくない。「食は精に厭かず」の大意を汲みとって済ますべきである。孔子の言葉はこのようである。であるのに、孔子が常に尊敬する斉の晏嬰(あんえい)は、斉の宰相であり貴い地位にあったが、脱粟飯を食したと「晏氏春秋」に出ている。脱粟飯は精ではない飯である。晏氏はむろん節倹に努めたことで斉で重用された者である、「食は肉を重ねず、妾(しょう)は帛(はく)を衣(き)ず(食事の肉は一皿で、下女には絹を着させない)」と云う。司馬遷云う、「仮に晏氏をして在らしまば、余これがために鞭を執るといえども忻慕(きんぼ)するところなり(仮に晏氏が今の世に在れば、晏氏の御者になってでも、私は欣び慕いたい)」と。孔子は晏氏を称え、司馬遷は晏氏を慕う、晏氏の人柄は無論尚ぶべきである、しかも斉の宰相であるのに脱粟飯を食すとは、倹約もまた甚だしい。晏氏は一族が多いために食費が足りずこのようになったのか、はたまた自ら倹約を実行して斉の民に手本を示そうとしたのか、そもそも粗食を甚だ喜ばしいことだと信じてこのようなことを為したのか。アアこれまた人情に遠い。斉の宰相に管仲がいて、孔子はその奢侈を誹(そし)る。しかしながら管仲の時に斉は天下の覇者になる。晏嬰の時には、斉は乱れて荘公は崔杼(さいちょ)に殺される。晏嬰は荘公の亡骸(なきがら)に取り縋って哭礼したと云うが、悲しいことである、脱粟の飯を食して斉がどうなったか。当然、世には晏氏のような人が居る、これは尊ぶべきことである。また自ら矯正して晏氏のようなことを為す人が居るが、これは喜べないことである。我が国の加藤清正は家臣に遺言して、食は黒米(玄米)を用いることを固く命じたが、義勇の武将の為すところは無論偉とすべきではあるが、清正の言の切々としたところに却ってその言の行われ難いことを思わせる。アア、誰が孔子に賛成しない者があろうか。呉に陳遺(ちんい)と云う者が居た。その母は好んで鍋底の焦げ飯を食う。陳遺は役所に在っては常に一袋を携行し、食事のたびに焦げ飯を集めては、帰って母に差し上げたと云う。陳遺の母のようなものが世に多くなければ、世もまた幸多いのである。それを好まない者から云えば鍋底の焦げ飯などは無論食うことができない。しかしそれを好む者から云えば焦げ飯もまた愛おしくあろう。陳遺の母はたまたま焦げ飯を好んで我が子を孝行者にする。子に非とすべきところ無く、母もまた非とすべきではない。ただもし世に有力な人が居て、陳遺の母のように常人の好まないものを好み、そして人に強制するような者が居れば、これは非としなければならないのである。(②につづく)
注解①
・和妙類聚抄:平安時代中期に作られた辞書で、源順が編纂した。略称は和名抄。
・武内宿禰:記紀に伝わる古代日本の人物。「日本書紀」では武内宿禰、「古事記」では建内宿禰と表記される。「宿禰」は尊称で、名は「勇猛な、内廷の宿禰」の意味。景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五代の天皇に仕えたという伝説上の忠臣。
・そのつづみうすにたてての歌:「古事記」に記されている、応神天皇が生まれた時に、神功皇后が御子(応神天皇)に御酒を奉った際に詠んだ歌に対し、御子に代って武内宿禰が皇后に返した歌。
・劉徽:中国・三国時代の魏の数学者。数学問題とその解法をまとめた有名な書「九章算術」の注釈本の著者。
・詩経:中国最古の詩篇。風(諸国の風度から生まれた歌謡)・雅(貴族社会や公的儀礼などの歌謡)・頌(王室の廟歌)の三分に分かれている。周頌は周王室の廟歌、豳風は豳(秦の北の地方)の歌謡。
・礼記:の内側:儒教の最も基本的な経典である「経書」の一つ。「周礼」「儀礼」と合わせて「三礼」と称される。
・呂氏春秋:中国・戦国時代末期に秦の呂不韋によってあらわされた書物。その内容は儒家や道家の思想を中心としながらも名家・法家・墨家・農家・陰陽家など諸学派の説が幅広く採用さる雑家の代表的書物。
・神農本草:神農本草は古代中国の神である神農が発見したという本草(薬)を著わした中国最古の薬物書。
・本草拾遺:唐の陳蔵器の著作。
・孔子:中国・春秋時代の思想家。儒家の始祖。
・食は精に厭かず、膾は細に厭かかず:飯は精白であるほど良く、肴や肉を切ったものは細く薄いほど良い。(「論語」郷党八)
・葱薤:葱はネギ、薤はラッキョウ、葱や薤を薬味に用いたか。
・煬帝:中国・隋の第二代皇帝。
・金薤玉膾:すばらしいラッキョウの薬味にみごとな魚の切り身。今でいう刺身料理のことか。
・元の雑劇の「切膾旦」:元雑劇(元曲)作家、関漢卿の作品。別称「望江亭」。元の時代にも刺身料理があった。
・朱子:中国・南宋の儒学者。儒教の精神と本質を明らかにして体系化を図った儒教の中興者であり、朱子学の創始者。
・周書: 中国・唐の令狐徳棻らが太宗の命によって撰した西魏・北周の正史。
・孔子が弟子の宰我を諭す言葉:孔子の時代の父母の喪の期間は三年であった。それを宰我が三年は長いので一年ではどうでしょうかと質問した時の孝子の答。「僅か一年の喪で、その稲を食い、その錦を衣て、お前は平気なのか。」(「論語」陽貨二十一)
・書伝:書経の伝統的な注釈書。
・孔子の、「悪衣悪食を恥ずる者は」の言:子日く、士、道に志して悪衣悪食を恥ずる者は、未だ与(とも)に議(はか)るに足らず(先生は云われる、道に志していながら悪衣悪食を恥ずるような者は、共に路を語るには不足がある)(「論語」里仁九)。
・晏嬰:中国・春秋時代の斉の政治家。霊公・荘公・景公の三代に仕え、上を憚ることなく諫言を行った。名宰相として評価が高く、晏子と尊称される。
・晏氏春秋:晏嬰の言行録。
・司馬遷:中国・前漢時代の歴史家。「史記」の著者。
・管仲:中国・春秋時代における斉の政治家。桓公に仕え、桓公を天下の覇者に押し上げた。
・崔杼:中国・春秋時代の斉に仕えた政治家。恵公に仕え英主・桓公の子である重用されるが失脚し衛に亡命。霊公の時代に斉に復帰し、荘公を擁立して専権を振るう。
・荘公は崔杼に殺される:荘公が崔杼の妻と密通してことで、怒った崔杼は自邸に荘公をおびき寄せて殺した。
・加藤清正:安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。肥後国熊本藩初代藩主。