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幸田露伴の剣客小説「日本無双」

日本無双

 我が国の剣術というものは、何時誰から起こったものか、詳しいことはよく知りません。源義経が鞍馬にいた時に天狗から剣術を学んだとか、鬼一法眼というものに教えられたとかの伝説はかなり古くから有りますが、義経の一代記を虚実打ち交ぜて面白く書きました義経記という古い本を読んで見ましても、ただ義経が遮那王と云われていた幼い頃、毎夜、貴船神社へ参詣して、境内の草木を平家の一族と看做して、二本有った大木を平清盛・重盛に見立てて、太刀を抜いて散々に切ったりしたという事が書いてありますが、剣術を学んだとは書いてありません。しかし、鞍馬八流などという剣術の流派が後の世には有りますし、それからまた、義経が剣術を学んだ跡などという所もあるようです。鬼一法眼はどういう人でしたか分かりませんが、ずっと後の足利時代の末頃、京都で武術師範をしていた吉岡剣法は鬼一法眼の流れをくんだものだと云われていた事もあります。義経記では鬼一法眼は京都一条堀川の陰陽師とあります。陰陽師と云えば占卜暦法(せんぼくれきほう・占いや暦)の事を職業とする者で剣術使いではありません。また源為朝は肥後の人で追手次郎則高という者に剣術を学んだなどという伝説も、武術家の間には有りますが、それも不確かなことです。ただし、義経記とあまり隔たらな時代に出来たらしい曽我物語に、筥王(はこおう)が木太刀をとることが見えていますから、曽我物語が出来た時分には既に木太刀などは何処でも有ったらしく思われます。木太刀はオモチャでもありますが、同時に撃剣の術を学ぶ道具でも有りますから、普通にその頃の児童がそんなものを玩(もてあそ)んで、剣術のような事をしていたなどは思いやられます。それらのことは差し置きまして、古くから武人がその青少年時代において、弓術や馬術を学ぶのと同じように、刀を用いる術を学んだであろうことは想像できますが、専門の剣術の先生というようなものが出来たのは何時頃からでしょうか、そう古くはないだろうと思われます。
 剣術の起源を正確に知ることは出来ないが、足利時代の末頃から、次第次第に卓越した剣術の名人が出て、それぞれの流儀を編み出し、それぞれの流派の祖となったことは明らかでして、流派流派の伝書には、その流派の継承の系図が載っていますから、それに拠れば、その流派の由って来るところは知ることが出来ます。中でも神道流、新陰流、中条流などは甚だ古い流派でして、剣術そのものが立派に成立したのは、これ等諸流の祖となった人々の恐ろしい努力と驚くべき妙技とに因ると云ってもよい位だと思われます。柳生流は新陰流から出て、一刀流は中条流から出て、名高い塚原卜伝は神道流と新陰流の両伝を会得して一家を成しているような訳で、これ等諸流は中々古いのです。その中の神道流の剣術の祖となったのは飯篠長威斎(いいざさちょういさい)という人でした。
 この長威斎は下総国(千葉県)香取郡飯篠村の人で、幼時から剣術を好んで熱心にその技を鍛錬しました。時代は足利時代の末でした。山城守家直と名乗っていまして、長威斎は晩年の号です。飯篠村から遠くないところに香取神宮が有ります。それからまた余り離れないところに鹿島神宮が有ります。この二社は今なお現存している大社で、香取神宮は経津主命(ふつぬしのみこと)をまつり、鹿島神宮は武甕槌(たけみかづち)の神をまつってあるのですが、経津主・武甕槌の二神は歴史に大書してある通り日本創業の勇猛な二神将です。それで家直はこの両社を尊崇しまして、熱心に祈願して、武術を以て天下に卓絶することを望み、ついに神助を得て天真正伝神道流という一流を興しました。これが即ち神道流の由来です。長威斎は後に山崎村に移り住み、多くの門弟を取り立てて勇名を天下に振るって目出度く終わりましたが、話はこれから起こります。この長威斎の門弟の中で、諸岡一羽、松本備前守政信、塚原土佐守などというのは大いに優れておりました。塚原土佐守は即ち塚原卜伝の父で、また松本備前守は戦いに臨むこと二十三度、敵首を挙げたこと七十三と伝えられています。二人とも普通人(ただびと)ではなかったのです。諸岡一羽は常陸(茨城県)の江戸崎に住んでいまして、心静かに門弟を指導して師の長威斎の神道流を弘めていましたが、門人に根岸兎角、岩間子熊、土子土呂之助の三人がありまして、何れも優れて上達し、精妙を極めておりました。
 ところが一羽はそれ程の剣術家でありましたが、誰も病気には勝てませんから、病(やまい)に侵されて立つことも出来なくなりました。しかもその病は人の恐れる病でして、皮膚が爛(ただ)れてして膿(う)んだ血が流れしたたるという難病でしたから、その教授の恩を受けることの薄い者から先ず離散して、だんだんと門前は寂れるようになりました。しかし、根岸・岩間・土子の三人は、大恩を受けた師の事ですから寝食を忘れて介抱しましたが、医薬でも治らない病気なので、何時まで続くのか分からなく長々としたことなので、そこで人情のあさましさは仕方ないもので、三人の中の根岸は看病が厭になりまして、二人に断りもなくいきなり姿を隠して仕舞いました。根岸の了見では、師に従って剣術の修行をしたのも立身出世がしたいからで、何も病人の看護がしたくて師に就いたのではないと云うのでしょうが、実に薄情千万なことです。二人は後に残って相変わらず師の看病をしていましたが、そういう義理堅い心なので根岸の行為を憎みまして、不義忘恩の犬畜生と怒ったのです。病中の師は何と思われたか分かりませんが、二人は根岸を憎み怒り、そういう心の奴は斬って捨てるべきと憤りました。それはさて置き、師の病気は長いことなので、弟子は皆離散しており、二人は元より富んでいるわけもなく、次第次第に困却して、先ず身の回りの雑品を売ってくらしを立てていましたが、それも尽きて無くなって仕舞たので、武士の身には何よりも大切な刀剣の類の差し替えまで売り、終には刀の笄(こうがい)や小柄(こづか)・小刀を外して岩間が売れば、今日は土子が秘蔵の一刀を売るというような情けないことになって、身に付いている衣服までも売るというほどになりました。それでも二人は大恩ある師の傍(かたわら)を離れないで、親切丁寧に力の及ぶ限りの介抱をしました。人手を尽し神助も祈ったのですが、寿命は仕方ないもので、諸岡一羽は三年の看病を受けた後、ついに亡くなりました。二人は深く歎き悲しみまして、葬儀一切の事を済ませましたが、サアこうなって見ると、根岸がこの場に居合わせないのは、遣る方ない遺憾千万であると鬱憤を二人に抱かせました。
 土子・岩間の二人は、四十九日の法事をして心ばかりの追善供養をした後、
「貧しい身の我等両人、大恩ある我が師の御生前後死後に、心の及ぶほどの事は致しまいらせたが、サテ貧窮の悲しさには、心余って手届かず、尊師の思し召しのほども恥ずかしゅうござる。」
「いかにも、御身(おみ)の言われる通り、今となっては一華一香も、心の誠は籠めてこそまいらせたが、立派な仏事供養も出来ない力無き今の境涯が口惜しくござる。」
「それに付けても根岸奴の不義忘恩、先師を御病中に捨てての逃亡、云いようも無い人非人、先師の亡霊もさぞや草葉の陰で、憎い奴と思召されようぞ。」
「うすうす人の噂を聞けば、先師のお陰を以て剣術を覚えながら、神道流の御名義も戴けばまだしも、天晴おのれ一人が神授発明など致したように装って、微塵流などと申して人に師範致すげな。」
「憎さも憎い奴、ただは置き申さぬ。」
「不義不埒の痴れ者め、眉間の八字をたたき斬って呉れいでは。」
「小生とても勘弁なりませぬ。」
と二人はよくよく相談をしました。
 根岸は病気の師を捨てた後、相模(神奈川県)の小田原が北条氏の城下町として賑わっていたので、直ちにそこへ行って剣術指南をしました。もとより諸岡一羽に永い間教練を受けていたので、技は十二分に出来ていることでは有り、力も強く筋骨も逞しく身長も高く、髪は山伏のようで、眼に角が有る物凄い男なので、これを見るものは皆恐れて、天下無双の剣術家のように思いました。諸岡一羽の神道流を学んで今日があるのですが、師を棄てて他国に逃げて来た事情があるので、自ら微塵流という一流を興して祖となりました。そこで弟子もだんだん出来て、恵まれた生活をしていましたが、小田原が衰退し江戸が次第に栄えて来たので、江戸へ移って剣術を教えたところ、大名や小名でその弟子になるもの多くいよいよ威名が盛んになって、天下を見下ろす勢いを現わして居りました。土子と岩間の二人はこの事を聞きまして、
「この上は是非江戸へ行き、根岸を討って捨てないでは。」
「忘恩不義のそれさえあるに、師伝の道を埋め私の名を売り、微塵流などと云って人の師匠顔する憎さ。」
「所詮(しょせん)は木刀にて打ち殺し、死骸を街路にさらしてくれよう。」
「ただし、二人で一人を討つのは我が身にとって嬉しくない。また人の聞えも宜しくない。ならば、」
「御身(おみ)の同意を得て小生参り向かう。」
「イヤ、御身許されよ、小生参り向かう。」
「イヤ、小生参りたし。」
「小生こそ。」
と争うようになりましたが、仲の好い同志ですから忽ち相談して籤引きにすることに定め、鹿島神宮の神慮に任すことにして籤を引きました。
「鹿島大明神、小生に御許可を賜り候へ。」
「鹿島大明神、それがしにこそ。」
と黙祷して籤を引いたところ、岩間が籤を当てました。
 岩間は貧乏の中ようやくの事で旅装を調えて江戸をめざして出立しました。行を見送った土子は、心から深く岩間が首尾よく本望を遂げることを祈りましたが、安心していることが出来なかったのでしょう。そこで我が神道流の出ましたところの鹿島神宮へ参詣しまして、熱心に心を籠めた恐ろしい願文を納めました。

 敬白願文奉納鹿島大明神御宝前(鹿島大明神御宝前に謹んで願文を奉納申し上げます。)
 右心ざしの趣きは小生土子泥之助の師匠諸岡一羽亡霊に敵対する弟子有り、根岸兎角と名付く。この者、師の恩を仇を以て報ぜんとす。今武州江戸に之有り、私曲をおこない逆意を振るう。これに依って彼を討たん為、小生の相弟子岩間小熊江戸へ馳せ参じたり、仰ぎ願わくは神力を仮り奉るところ也。この望み足りるに於いては、二人は兵法の威力を持って日本国中を勧進し、当社破損を建立し奉るべし。もし岩間が利を失うに於ては、小生が又彼と雌雄を決すべし。千に一ツ小生が負けるに於いては、生きて当社へ帰参し、神前にて腹十文字に切り、腸を繰り出し、悪血を以て神柱をことごとく朱に染め、悪霊となって未来永劫当社の庭を草野として、野干(やかん・野獣)のスミかと栖(すみか)となすべし。すべてこの願望毛頭私欲にあらず、師の恩を謝する為なり。如何でか神明の御助け無からん。
   文禄二年癸巳九月吉日  土子泥の助

 何とも物凄まじい願文ではありませんか。しかし、願文を味わって見ますと、いかにも私の感情からで無く、義理の正しいところから、根岸を退治しようという念に充ちているかが思い遣られます。そういう信念なればこそ鹿島大明神を強迫するようなことを申しているのでしょう。岩間は江戸へ出ましたが、直接根岸を尋ねて勝負を決したのでは私事になって、ただ個人の仕合のようになって仕舞いますから、それでは存念が貫けません。そこで熟考しまして、江戸の大手に当る大橋(今の常盤橋でしょう)の袂に立札を致しました。その立札の文意は、小生の上に立とうとする者之有るにつき、その者と勝負を決すべし、勝ちたるが師となり負けたるが弟子となるべし」というもので、文禄二年癸巳九月十五日、日本無双岩間小熊と墨跡黒々と書いて置いたのです。根岸の弟子の大名や小名は根岸を日本無双と思えばこそ、その弟子になっているのですから、この立札を眼にしまして烈火のように憤りを発しました。
「憎(にっく)き田舎侍奴の札の立て様かな」
「今の天下に隠れ無き根岸先生が江戸に御座すのを知らずに立てたのか、知って立てたのか」
「いずれにしろ、無法不敵な奴」
「議論に及ばず、札を打ち割って捨てよ」
「その岩間と云う奴、たたき殺せ」
「棒づくめにして町中に晒(さら)して呉れる」
と大変な騒ぎになりました。根岸はこの事を聞いて、剣術を以て世に立っている自分の体面上、大勢の弟子によって岩間を打ち殺したのでは済みません。ことに岩間の心の底も自分では分かっていますから、岩間が江戸へ出てきた以上は、両立は出来ないと考えたのでしょう。我も江戸崎を出てからこの二・三年、日々剣をとり修練に修練を重ねて、岩間も使い手であるが、彼奴に後れを取るとは思わない、ヨシヨシ勝負を天に委ね彼奴と闘って、いさぎよく一剣に打ち倒して呉れん。と健気にも覚悟をしたところは流石に剣客です。そこで門人等の騒ぐのを制止して、一撃で打ち殺してみせると云い切りまして、奉行所へ試合の事を申し出ました。文禄二年と云えば徳川家康公が江戸城を築城された年で、朝鮮征伐の軍は海外に出て居り、人々は皆ともすれば刀を戦わせて誇りとする時代ですから、武勇を重んじることは非常な時でした。そこで両人の試合の事は直ちに許されまして、場所は立札をした所、即ち大手先で、警護厳重に、役人等は弓矢や槍で騒乱を鎮めるという大掛かりな事になりました。試合をする二人の大刀を預かって、東西に分かれて闘うことに定められましたが、この時代から後々の長い間の試合というものは、現在のように竹刀でもって、面・小手・胴を着けて勝負するのとは違って、武器は人々の好み次第で、ただ鉢巻をする位で闘うのですから命がけです。奉行は誰であったか詳しくは記録されていませんが、総奉行は山田豊前守という人、岩沢右兵衛助という人もその一人で、高山豊後守という老武士も立ち合いの一人でした。
 やがて岩間は西の方から出ました。貧窮の身ですから身なりも立派ではありません。ねずみ色の木綿袷に浅黄色の袴を穿きまして、足半という今の草履を半分にしたくらいのものを足に履き、手馴れた木刀を持って出ました。小男でずんぐりと逞しく、髪は童子のようで、頬髭厚く生えた内から眼はきらめき光り、まことにその名の小熊のようであったと云う事です。根岸は橋の東の方から出ましたが、その装束(いでたち)はと見ると、大筋の小袖に繻子をくくり袴を着け、白布(しろぬの)を縒(よ)って襷にかけ、黒い臑当てをして草鞋(わらじ)を履き、六角に太く長く削って作った木刀に鉄の筋金を入れ渡し処々に疣釘(いぼくぎ)を打った、したたかな見るも恐ろしい武器を執ってノッシノッシと立ち出でました。背高く険ある眼の今日は一段ときらめき渡り、まことに見るからに物凄まじい剣幕です。岩間は根岸を見るや、右に木刀を持ち、左手で我が髪を撫で上げながら、
「如何に根岸!」
とただ一言に無量の思いを籠めて声を掛けました。すると根岸はさも傲慢に、そのいかものづくりの木剣を右に、頬髭を左の手で撫でながら、
「されば!」
と尊大に一語、答えたと申します。言わず語らずの間に、二人の思いは既に高度の感慨と奮激と死力とを以て闘い始めたことでしょう。
 サテ、双方たがいにジリジリと詰め寄せると、根岸は木剣を真っ向から振りかぶって、鉄石も一打ちと狙いすますと、岩間は下段に構えて、平然と技に於ける信念と師恩の為という勇気に充ちた態度で端然と相対しました。その中に根岸は機をみて電光石火に切り下ろしました。岩間はハッシと受け留めましたが、根岸は大力で大男で、かさにかかって岩間を橋桁に押し付けましたから、岩間は動けないように見えましたが、技の神技は計り知れません。ヤッといって岩間が立ち上った時は、根岸の片足は岩間の手につかまれて、忽ち根岸の身体は真っ逆さまに橋下に投げ落とされました。それと同時に岩間は脇差を引き抜いて、
「八幡大菩薩これを見よ。」
と声を上げ、欄干を切って勇武を示しましたから、見物の人々は思わずドッと鬨(とき)を作って、
「でかした、でかした」
と褒めたそうです。この勝負は内々家康公も御櫓(おやぐら)から御覧だったという事で、また岩間が切った欄干の太刀痕は、明暦三年正月の大火事までは確かに残っていたそうです。
 この話は歴史小説などと云う類のものではありませんが、およそ実際の話で、少しも私の作為したところはありません。この話を通して昔の剣士というものがどのようなものか、少しでも皆さんに想像できるところが有るとすれば、それで私がこの話をした甲斐はあります。
(明治四十四年十月)

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