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幸田露伴の随筆「震は亨る続稿」

震は亨る続稿

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 震を雷とする。震は地震をさすのではない。それなので、象伝にも遊雷は震なりとある。その位のことは易経を読む者は誰でも知っている。自分が地震の話に震の言葉を用いた為に震を地震のこととしているのかと思われては笑いたくもなる。しかし、震は振である、振・戦・威・怒・顛・動・懼・慄、皆震である。ただ震は本来は天雷であるが、地震も雷の中に含めてもよい。要は恐懼修省の四字を人に勧めたいだけである。
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 災難を戯れの材料にするのは道理に遠く人情に薄い行為だとして憎むべきなのは勿論である。突然発生した災禍に周章狼狽した老幼男女の醜態を、敢えて冷嘲酷誹する者にとっては、絶好の材料であろうが、これを笑いの材料とするのは、その人既に他の人から笑われ罵られるべき者ではないだろうか、何等良い結果を自他に齎(もたら)す筈も無く、軽薄残酷の批判を免れるところ無く、罹災者からは怒り恨まれるべき者である。猛火が家に迫る時に猫を抱いて逃げたと云えば、笑うような挙動に違いないが、児女の情として、動顛の余りにこの様なことをすることも有り勝ちな事である。これを画にし、文にして、笑い嘲るようなことは、いわゆる仁心が少なく同情の無い事である。震災後の日時が多く過ぎた後であれば、これを語って笑うことも或いは咎めることも無いが、廃瓦残礎で満目荒涼とし、人々の創痍も今なお新たな折に、笑い声を挙げるようなことは真(まこと)に憚るべきである。しかし人々全て、泣きっ面をして真面目にしていろと云うのではない。安政の大地震に於いて雑書は数々あるが、その中で可笑しいのは鯰(なまず)太平記である。前太平記をもじった書名で短いものであるが、鯰の髯長と云う者が反乱を起こした体裁で軍書のように書いたものである。その類の書は遠く足利時代に禅閤兼良あたりから始まって、烏鷺の合戦など擬軍書の一ツの流れは中々多いものである。今日(こんにち)まさか鯰の謀叛とも云えないが、地震や火災を人に擬(なぞら)えて罵るなら、どれほど罵っても怒りはしないだろう。混乱の時に乗じて資本が要らないからと云ってデタラメな嘘を創作して、伊豆の大島が無くなったとか政友会の幹部が多く死んだとか、丸ビルが二ツに裂けたとか、牛込や四谷も焼けたなどと、面白がって種々の奇怪な事を云い触らしたりした不埒者(フラチモノ)などは、最も罵られるべきである。訛伝は別にして、為(ため)にするところが無くては出来ないだろうと思われるような無茶な嘘を、見て来た聞いて来たなどと伝えて、いやがうえにも人心を恐れさせるなどは、正に鯰の髯長の回し者として罵るべきである。実に為にするところもない嘘つき弥次郎氏の俄(にわか)作りの無字小説には、どれほど人々が脅かされたか知れない。大災害の際に漫画漫文の対象として最も好い獲物はこの弥次郎一派の人物で無ければならないであろう。
 貞享の俳諧に

 命婦の君より米なんどこす

という重五の句がある。これは、

 忍ぶ間の業とて雛を造りいる

と云う句を付けたもので、知り合いの命婦の君から米などを送って呉れたと云ったのであるが、その命婦の句に荷兮が

 籬(まがき)まで津浪の水に崩れゆき

と付けている。津浪の為に米などが来ると取りなしたのである。次に籬の句に芭蕉が、

 ほとけ食いたる魚ほどきけり

と付けているが、このほとけを古人は仏像と理解して、僥倖を得た体だと云い、志度浦の長田作平と云う者が鰐を解体して恵心僧都作の弥陀を得たことなどを挙げて、解釈しているが感服しない。ほとけは死骸であって、魚の腹に他の物は見え無くても毛髪や爪は残るものなので、魚を解体して、アアこの魚は食ったんだナと悟ることがある。芭蕉の句は確かにそこを云っているのであろう。深刻さ恐るべきしある。津浪では無いが今度のような大災に、なさけないものが川を流れ潮に漂うのを見せられては、マザマザと此の句は生きて来るのである。
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 余り騒ぎがひどくて、女子などは堪えかねるように見えたので、勧められるままに千葉の田舎の某氏のもとに避けたのは三日で、四日の朝早くフト見ると庭の籬に朝顔が美しく露を宿して咲いているのが眼に入った。

 人の世の 今日を知らなく はかなしと 思いし花の 朝顔の笑む 
(大正十二年十月)


訳者あとがき
「震は亨る」を書かれたことで、易経の震は雷あると批判する声があって、先生は「震は亨る続稿」を書かれたのであろうか。

注釈
・震を雷とする:
易経の震の卦(八卦)に震は雷なりとある。

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