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幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話・檄①」

 檄(げき)は文章の働きの大きなものである。彼が我に対して譲らず、我が彼に対して屈せず、彼と我が争い攻め合い、各々がその道を異にし、その理に拠ってその利を護りその害を払おうとし、終には進んで戦おうとするに及んで、戦意の赴くところから発する激烈な文章をつくる、これを檄と云う。古人が「檄は皦(きょう)である。外に宣言して、明確明白である」と云うのも、解釈し得て甚だ適切と云える。皦は玉石が白いのである。明らかなのである。澄んでいるのである。「論語」の「皦如たり」とは、ハッキリ区別できて混濁がないのである。「詩経」の「皦日の如きあらん」は明白であって、雲や霞で覆われることが無いのである。道理と正義の真実を宣(の)べて、鬱憤を露(あら)わにし、文を捨てて武を用い、力に依って事を正そうとして、根拠を明らかにする、これが即ち檄である。
 実に善いではないか。斉の劉勰は檄を論じて云う、「五帝の世は戦いを戒め、三王は軍に誓う、自らが衆に宣訓するだけで、未だ敵対する者は無い」と。また、「周の穆王が西征することになると、宰相の祭公謀父は、古には五帝の威譲の令があり、また三王の文告の辞があろましたと称える、即ちこれが檄の本源である」と云う。また云う、「春秋時代になると諸侯は征伐仕合う。敵の屈服しないことを恐れて出兵するにあたっては名分を立てて、此方(こちら)の威風を振るわせて敵を混乱させようとする。劉の献公が、いわゆる之を告げるのに文章を用い、之を正すのに武力を用いたようなことである。斉の桓公は楚を征伐するにあたり苞芽の欠けることを詰り、晋の厲公が秦を討つや箕や郜の焼かれたことを責める。管仲や呂相は事に先立って文書を突き付けその意義を明らかにする。即ち今の檄文である。戦国時代になると初めてこれを名付けて檄と云う」と。真に道徳の盛んな世では、既に戦闘が在ったとしても、ただ宣示や訓令があるだけで、未だ檄が布告されることがなく、春秋時代になって実際に徐々に檄が行われ、戦国時代になると遂に檄の名が付いたと説明している。
 檄の名は、早くは「史記」に出ていることが、「舎人が指摘し、張儀は楚に檄す、書は尺二を以てする。」と云うことで明らかである。嘗て張儀が未だ無名の時代に楚の宰相に従って酒を飲む。宰相は玉(ぎょく)を紛失する。張儀が玉を盗んだのではないかと疑い数百回も笞で打つ。張儀が「連衝の説」によって秦に用いられて秦の宰相になると、檄文をつくって楚の宰相に告げて云う、「始め吾は若(なんじ)に従いて飲めり、我は爾(なんじ)の玉を盗まざるに、若(なんじ)は我を笞打てり、若(なんじ)よく汝(なんじ)の国を守れ、我ただ且つ而(なんじ)の国を盗まん(以前私がお前に従って酒を飲んだ時、私はお前の玉を盗んでいないのに、お前は私を笞打った。お前はお前の国を良く守れ。私はただただお前の国を盗もう。)」と。張儀の檄文が果してこのようであったかどうかを、確かには知ることができないが、一ツの汝(なんじ)の字を記して、若・汝・爾・而の四字を用いる。歴史家の一筆ではあるが当時の文気が伝わるようでもある。厳鉄橋はこれを張儀の文であると記す。思うにそうであろう。これが支那の文献において檄と名付けられた初頭のものである。
 記するに尺二とする。尺二とは一尺二寸である。当時の文書には多く木簡を用いる。木簡の長さが一尺二寸なのである。漢の許慎の「説文解字」では檄を解釈して、「檄は二尺の書である。」とある。これは今の本の「説文解字」の誤りであって、許慎も原本では尺二の書としたことに間違いない。しかしながら顧野王の「玉篇」や顔師古の「急就篇注」などに二尺とするものがある。尺二が転倒して二尺になることも、古からそのようなことのあることを知っている。ただ「後漢書」光武紀の李賢の注に「説文解字」を引用して尺二とし、また劉勰は文で尺二と明記し、また漢の人に尺一の書と云うことが多いことに照らせば、古本は二尺に作らなかったとみるべきである。沈涛の言を無視すべきではない。檄文は真に尺二の木簡だったのであろう。
 檄文の文体は自然にできたが、後漢末に袁紹が予州刺史の劉備等に与えた陳琳による檄文が出ると、その火のような文章は千古に烜赫し、後人は目を眩まされて魂を奪われた余りに、檄文は陳琳を以て祖とすると云う者が出るようにもなったのである。陳琳は、曹桓や王粲・徐幹・阮瑀・応瑒・劉楨等と善く文を交わした。諸人は皆当時の選良である。陳琳はこれらの中に入っても後れを取らない。初めは何進の主簿であった。何進が四方から猛将を招集し、兵を率いて都へ向かい、その志を成そうとするに当たって、これを諫めたが、何進は聞き入れず、これに因って何進が殺害されると、陳琳は難を冀州に避けて袁紹を頼る。袁紹は幕僚として何進に文を担当させる。ここにおいて袁紹の意を受けて、曹操を責める檄文を成したのである。時に曹操は内に在って奸雄の才を以て天子を擁して天下に号令しようとする。袁紹は外に在って、大将軍ではあるが曹操を除くには勢力が不足する。そこで陳琳に一大文章を起草させて劉備に与えるとともに、天下に曹操の奸悪邪智で野心毒謀を抱く、憎むべき忌むべき、倒すべき、殺すべき者であることを知らせて、各州郡の軍と共に兵を連ねて武力で以て社稷(国家)を正し、鬼魅(曹操)を除こうとしたのである。そこで陳琳は筆を揮って文をつくる。滔々一千五百言、その文は今、「三国志魏書袁紹伝」の裴松之註や「梁昭明太子文選」等に在る。陳琳はいわゆる正義を立て、弁を揚げ、努めて剛健に事明らかに道理を述べて、意気盛んに弁断する。陳琳の文は、初めに非常の事と非常の功を論じ、忠臣が国難を慮って武力を用いるのも、やむを得ないところから出たものであると云い、武力で曹操を除かなければならない理由を断言し、次に曹操の祖父曹騰の憎むべきことを云い、父曹嵩の卑しむべきことを罵り、つづいて曹操の狡猾で危険なこと、国家の禍乱に乗じて自らを利して憚らず、賢人を残(そこな)い善人を害し、賞罰を私有し、威権を立て、財を得ることを急いで尊貴の墓を発(あば)いては金宝を掠取し、自身は三公の位に在りながら凶悪を行い、国を汚し、民を虐待し、世を毒し、部下の精兵七百を以て宮城を囲守し、外は駐屯の兵に託し、内は実に拘執する等、ひとえに事実によって詳説し、問い詰め、主君の献帝から実権を奪い取ろうとする簒逆(さんぎゃく)の萌(きざ)しが、これに因って起ころうとすることを懼(おそ)れると云い、これ即ち忠臣の決死覚悟の時であり、烈士が功を立てる絶好の機会である、皆々努めなければならないと激励する。痛快淋漓として、毒罵は骨に徹し、曹操の面の皮がたとえよく鍛えられ鉄のようであっても、まさに又、生気を失った顔色に成ろうとする。一千数百余年前の文とは云えども、今読む者もまた眦(まなじり)を決して奮然と起って、曹操を膾(なます)にしようとの思いにさせる。思うに当時の州郡は皆その檄によって震撼激騰し、勇将や壮士は、努髪冠を衝き、旗を揚げ、馬を進めて、直ちに曹操等の賊を討ち取ろうとしたことであろう。劉勰のいわゆる百尺の衝を咫尺に摧折し(長大な守りを粉砕し)、萬雉の城(高さ一万丈の城)を一撃に転がす力があるといえる。劉勰また云う、「陳琳が予州へ与えた檄は壮にして硬骨である。邪悪な宦官を繋養することの一々を甚だ詳しく明らかに章記し、墓を発き金を模索することを誣告して苛虐に過ぎるといえども、しかも弁を揚げて罪を記すこと檄然として露骨である。敢えて曹操を指す鉾が、幸いではないか、袁軍の殺戮をまぬがれるとは」と、陳琳の檄、力は山を抜き海を翻す、実に文筆の雄威は一世を圧倒するものである。
 陳琳の文章の威力が曹操を苦しめ、袁紹を助けたこともまた甚大である。しかしながら曹操は猛々しくて敏捷、機略縦横で人に屈しない。袁紹は外面は勇壮だが内面は柔(やわ)く、大志は有るが機を見るに遅い。曹操と袁紹は闘うこと数ヶ月、始めは袁紹の勢いが壮んであったが、終に曹操の軍が勝つ。袁紹が大いに敗れて潰え去ると、陳琳は曹操に捕らえられる。文士と奸雄は相対し、敗筆と利剣は互いに前に在る。曹操はおもむろに陳琳に云う、「卿はむかし袁紹のために檄を送りよこす、ただ一人の罪状を憎んでその身にとどめるべきであるのに、何ぞ父祖の上にまで及ばす」と、陳琳の酷毒の筆が曹操の父や祖父に及ぶことを詰(なじ)る。陳琳はただ謝罪するだけである。この時曹操は陳琳を殺すことが出来、また陳琳を辱めることも出来たが、しかしながら不世出の奸雄である曹操は、陳琳を殺し、陳琳を辱めて、一時の快を取るようなことを敢えてせず、三代に亘って罵られた怨恨も忘れて、これを流水浮雲に任せ、陳琳の才能を愛して咎めず、優遇して幕中に置く。陳琳の才能の偉大さが曹操に之を殺させなかったといえども、曹操の器の大にして能く人を容れて吾が用を為させたところは、まことに古今の偉観といえる。曹操が奸雄であることは、人は皆之を知っていて之を憎むが、奸雄の甚大もここまでくると、奸雄もまた愛すべきところのあることに気付かされる。まして曹操は奸雄ではあるが、一面にはある種の詩人気質を生まれ持つ、もしこれが太平無事の日に生れたのであれば、或いは一詩人としてその生涯を終えたかも知れないのだ。(②につづく)
 
注解
・劉勰:字(あざな)(通称)は彦和。中国・南北朝時代の斉から梁にかけての官僚で文人。「文心雕龍」五十篇を編纂して古今の文体を論じる。
・五帝の世は兵を戒め:中国古代の五帝(黄帝・顓頊・嚳・堯・舜)は戦うことなく禅譲で帝位を替わる。
・三王:中国古代の三人の聖王。夏 の禹王、殷 の湯王、周の文王。
・周の穆王の西征:周の穆王の西征:穆王の犬戎征伐。
・劉の献公:中国・春秋時代の侯国。
・苞芽の欠けることを詰り:斉の桓公は楚の征伐にあたり、宰相の管仲に楚が貢ぐべき包茅(祭祀に用ふる青茅の包み)が周室へ届いていないことを非難させる。
・箕や郜の焼かれたことを責める:晋の厲公は大夫の呂相を秦に送って断絶を告げた。この時の文書を「絶秦書」といい、この中で秦が晋の箕と郜の地を焼いたことを責める。
・舎人が指摘し:舎人は側近のこと、ここでは蘇秦の側近が、蘇秦が秦の宰相に張儀を奨めたことを打ち明けたことをいう。(「史記」張儀列伝)
・張儀:中国・戦国時代の縦横家(弁論家)。蘇秦と共に縦横家の代表的人物とされ、秦の宰相として蘇秦の合従策を連衡策で打ち破り、秦の拡大に貢献した。(「史記」張儀列伝)
・張儀は楚に檄す:秦の宰相に就任した張儀は、檄文を作り楚の宰相に告げてこう言った「始め私はお前に従って酒宴で飲んだ時に、私が璧を盗んでいないのに、お前は私を笞打った。お前はお前の国を良く守れ。私は(以前の遺恨を)顧みて、これから楚の城を盗んでやるぞ。」(「史記」張儀列伝)
・厳鉄橋:清の厳可均のこと。
・説文解字:中国・後漢の許慎が著わした最古の漢字字典。略して説文ともいう。
・玉篇:中国・南北朝時代の南朝梁の顧野王によって編纂された部首別漢字字典。
・急就篇注:中国・前漢末に史游が著わした漢字学習書「急就篇」の顔師古による注釈本。
・後漢書:『後漢書』は、中国の後漢について書かれた歴史書。
・沈涛:?
・袁紹:中国・後漢末期の武将・政治家。字は本初。
・劉備:中国・後漢末から三国時代の武将、蜀漢の初代皇帝。字は玄徳。
・陳琳:中国・後漢末の文官。字(あざな)は孔璋。徐州広陵の人。
・何進:中国・後漢末の武将・政治家。
・曹操:中国・後漢末の軍人・政治家・詩人で、実質的な魏の創始者。
・三公の位:中国の官制における最高位に位置する三つの官職。


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