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幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話・弁才天女③」

 
 サラスッチーの涸れた理由については別に古い伝説がある。それは聖者ウタトキの美妻パードラをかねてから懸想していたヴァルナ大神が奪い去って、二人を一緒にしないようにし、聖者からの使者である那羅陀の迎えを拒絶して返さない。ここに於いて聖者は大いに怒り、「ヴァルナが我が妻を返さないうちは、全ての海水を飲み干してヴァルナの湖を干渇し、大海を掃蕩して呉れる」といって、聖者自らが国土と河にこの事を告げる。そのためサレスッチー河は砂漠に没し、国土は荒れ、沙磧地となり、ヴァルナはついに降参してパードラを返すことになったと云う。この伝説はいろいろと様々な解釈が可能であるが、天地異変の話とも見えて、また地方と種族の関係の変革話とも見えて、サラスッチーが古い昔は終には海に入る河であったのが、ある時において末無し河になったことを語るものと見ても間違いではなかろう。ヴァルナは華厳経などに出て来る龍王の名である婆楼那と同じでその意味は水である。ウタトヤはバラモンの七大種族の中のアンギラスの系統に属すと云うのであるが、アンビラスは阿祗尼に出ている。阿祗尼の意味は火である。であれば最も単純にこの伝説を解釈すると、火の神が大いに威を振るって水の神を攻め、大旱が次々と続いてサラスッチー河が干渇し、土地が変化して乾燥の砂漠地になったことを語るとすべきである。
 憍陳如の弁才天女を讃頌する語の中で、読んで解り難いのは或現婆蘇大天女の一句である。これは弁才天女が婆蘇大天女として現れたとも読め、或いは婆蘇大天の女(むすめ)として現れたと読める。婆蘇天女と云うものは聞いたことが無いので、婆蘇大天の女と読むべきであろうか。婆蘇は古い水・極星・月・地・風・火・曙光・光などの自然現象が人格化されたものであって、後にはクリシュナの父になったものであれば、クリシュナもまた婆蘇と云える。弁才天女はサラサバチーなので、自然現象におけるアーバ即ち水の女であるとされるのも間違いではない。別に婆藪仙人と云うのがある。それは摩伽陀国で王舎城を立てた広車王の父であって、王位を捨てて仙人になった後に、妄語をして改めなかったために生きながら徐々に地中に埋められたと云う興味ある伝説を遺した者である。この婆藪仙から、天の祀りの中で羊を殺す時、刀を下すに当たって、「婆藪汝を殺すなり」と言葉を云う例の起きことが龍樹の論の中に出ている。婆藪の妄語は在家のバラモンと山内のバラモンとの争論から起きる、在家のバラモンは「天祀中に殺生しても可」と云い、山内のバラモンは「天祀中に殺生すべきでない」と論じ、ついに国王であり仙人である婆藪の判断を得て決着をつけることになり、その夜在家バラモンが婆藪の許に行き、「我等の意見に賛成して下さい」と懇願したので、仙人はやむを得ずこれを承諾した。翌日になって両者の間に在って、「天祀の中において生き物を殺して肉を食らっても罪はない」と云い、「天祀中に在って生を失うことは天上に生を得るための縁となろう」との方便の説を為したため、その身は次第に地中に没しようとするが、死を覚悟して説を改めず、敢えて在家バラモンの便宜を図り、そのため生きながら地中に埋められたとある。妄語して地獄に堕ちるというこの話は一方的には責められない恕すべきところもあり、方便を用いて他人(ひと)のためにする高い精神も含まれることなので、後に婆藪は華聚菩薩から解脱を得ると云う話がある。或現婆蘇大天女、見有闘戦心常愍の次句を見る時は、闘争の間に立って憐憫の心を動かした婆藪の心の内も思われ、弁舌言論のことに思い至ると弁才天女と婆藪仙人とは関係あるとも考えられるが、どうしても大天女の三字に邪魔されて善く通じることができないので、婆藪仙人のことは全く別の話として、ただ単に婆蘇天の事として理解すべきか。或いはまた私の知らない婆蘇大天女と云うものが別に存在するものか。はたまた現存の経文に瑕疵があて、人が読んでも理解することができないのであるか。
 山が峙(そばた)ち水の流れる、草茂る広野の地に在って、野蚕の衣や香茅の衣で原始世界の生活をするような天女は、憍陳如の偈頌に獅子虎狼常囲繞(獅子虎狼が常に囲繞する)とあるので、遠く無いところには猛獣などが棲むような所に居られたか、または牛羊鶏等相依(牛羊鶏等が相依る)とあるので、手近には多くの美しくて温順な家畜などを放し飼いにして居られたのであろう。振大鈴鐸出音声、頻陀山衆皆聞響(大鈴鐸を振るって号令する、頻陀の山衆は皆その響きを聞く)、とあるのを考えると、時には大きな鈴を振るって玲々とした響きを暁の風に伝え、或いは澄み徹る号令の声を揚げて、琅々とした妙音を暮れ靄の中に貫かせたことであろう、さながらこれは放牧飼育の光景ではないか。そしてその地は頻陀山の麓であって、天女の配下に属す者が多いことから山衆と云うのであろう。この頻陀山と云う山は空想から出たものとも思えないので、その所在がはっきりすれば甚だ興味あることではあるが、今は知ることができない。ただ頻闍山と同じ山だと推測するが、残念ながら頻闍山の所在もまた知ることができない。パンジャブ西北高地ではないかと思うだけである。或執三戟頭円髻(或は三戟を執り頭は円い髻)とあるので、天女の髪は円く束ねられていたと思える。我が国の浮世絵に見るような、前髪のところには朱の鳥居が飾られ、頂には小白蛇が蹲っているなどは有り得ないことで、いかにも自然にゆったりと安らかに在られたのであろう。三戟の訳語はよく分からない。天女の持ち物は同人の第三の頌に、常以八臂自荘厳、各持弓・箭(や)・刀・弰(つがえ)・斧・長杵・鐘輪・並びに羂索(けんざく)(常に八臂を以て自ら荘厳する、各々弓・箭・、刀・弰・斧・長杵・鐘輪・並びに羂索を持つ)とあることで知ることができる。弓であり、箭であり、刀であり、弰であり、斧であり、長杵であり、鐘輪であり、並びに羂索(けんざく)である。弰は鉾の長いもので馬上から用いるのに宜しい。長杵は杵臼の杵ではなくインドの伐折情羅(ばさじょら)即ち金剛杵であって、ヴァジラはもちろん軍器であって、金鉄木石を用いて作り、その両端が一穂のものを独股杵と云い、三穂のものを三股杵、五穂のものを五股杵と云い、長さは十六指、十二指、八指などがある。ここで長杵と云うのは即ち十六指のものを云い、三戟と云うのはヴァジラの一ツの頭が支那の戟のようなので、三股の金剛杵を訳してこう言ったのであろうか。鐘輪は金属を用いて作る小車輪のような形のもので、輪の部分に数個の小刃が付いている。これを平らにして投げれば、回転して能く遠くまで達して触るものを切り破る。羂索は投げ縄である、不空羂索観音や不動明王などの手にするものが即ちこれである。羂は掛けるであり、妨害して進めないようにすると云う意味がある、本(もと)は獣を取るものである、カウボーイが用いる投げ縄のようなものがこれに当る。このような道具を持ち、このような環境に在って、このような恰好でこのような動作をする天女は、これは広大な地域を颯爽と治める女牧長ではないか。であれば、既に憍陳如の頌の中にも、権現牧牛歓喜女の句がある。弁才天女はまことに朗らかで明るい雄々しくも美しい牧牛女で在られたのである。一切衆生、アア誰かこのような天女に心を込めて誠を捧げないことがあろうか。
 権現の思想は意味が深く、小乗や大乗を超越し、理論と実際を融解して一切の疑問を除き去るものである。金光明経は法華経と同様に小乗を弾呵(だんか・非難)し、大乗を演暢(えんよう・宣揚)するものであるが、権現の一語はこの経のこの部分にも出て来て、またこの経の如来寿量品には、世尊金剛体、権現於化身とある。字にしたがって理解すれば、権現は仮に現れると云うことに過ぎないが、仮に現れると云うだけでは権現の意味を尽していない。また外国語のインカーネーション(顕現)というのとも少し異なる。権現は同異を一ツにして真仮の別を無くすのである。権現の意味が確立していなければ、宗教は皆拠りどころを失って空言となるのである。両部の説が大いに行われるようになってからは、権現の語は世の嫌うところとなったが、権現の観方を何で排除する必要があろうか。今は権現を論じることはしないが、ただここに弁才天女を語って、牧牛女を権現とするとあるのは天女を冒涜するようで、人が認めないであろうと配慮して聊か云うとしよう。頻陀山麓の牧牛女を弁才天女の権現ではないと思ってはいけない。天女もまたサラスッチー河神の権現である。河神もまたアーパの権現であり、アーパもまた大元の権現であり、大元もまたアラヤの権現なのである。こうなると牧女が天女の権現であるだけでなく、天女もまた牧女の権現のようである。観世音菩薩の権現は三十三身であり、普賢菩薩は妻の遊君と権現し、水仕女(みずしめ)のお竹は大日如来の権現と云われたではないか。円融解脱成就一切の法眼(一切を円融解脱した知恵のある法を見る眼)で観るときは、大弁才天女の権現は人々の家にも、或いは亡き母となり或いは亡き妻となって在るであろう。何で牧女の天女の権現であることを疑うことができよう。
 このような観点から天女を讃頌しないで、自然界の中に於いて天女のことを伝えよう。天女は既にサラスッチーと云う、このサラスッチーを今はサラスアチーと云う、義浄の伝えるところと同じである。そしてその河神を学者は、或いはアフガニスタンの古称であるハラガイチと同じだとし、或いはまたサラスアチーの語はただ単に大河であるとして、主にそれはインダスを指すと云う者がいる。サラスアチーや大河はインダスの説をとるようである。別にサラスアチーと云う小河がパンジャブ地方に一ツ、グジャラド地方に一ツある。どちらも末無し河であるが、アラハバッドでガンジス河やヤムナ河と合流する云われるものは、パンジャブ地方のものであることに間違いない。このサラスアチー河地方をサラスアチと呼ぶ。またバラモン種族の中に有力な一大部族があってサラスワタと呼ばれ、現在のパンジャブ地方及び他の地方に広く分布する。河と地方と種族の三者の名が離れることなく今に及ぶ、その原始の状態を察知することができる。インドの古(いにしえ)にあってはアリアン種族が西北から進入して来て、次第に南下し文明を成したことは疑えない。弁才天女は即ちインドの西北地方のサラスワチー河に沿った地方で、原始的繁栄を成した種族の中から起こったものでなくてはならない。しかもこのサラスワタ種族はバラモンの多くの種族の中でも優秀なものであった。伝説に云う、「古に大旱魃があって他のバラモン種族等が困窮の余りに、神に仕えることを怠り聖典の韋陀さえも失ってしまう。当時サラスワタ(男性)は、母即ち河によって魚を以って養われて、韋陀の知識を失わなかったので、旱魃が過ぎ去って後には、バラモン族はサラスワタに就いて教えを受け、そのため韋陀(いだ・ヴェーダ)を得てバラモンの名を辱めなかった」と。これは韋陀の多くがサラスワタ族の手に成るのを、その以前から存在したものとして、その功績を奪い、かつその教えを高遠で神聖なものにしようとしたことを物語るものである。思うにサラスワタ族の中に賢者が出て宗教思想の拡張と展開を為したものを、これに従う他の種族がこのように云い出して、このように伝わったものか。魚で養われたと云われるその子の母即ちサラスバチーは、後世になると伝説になって大梵天の妻とされ、韋陀の母であるとされ、デバナガリー文字の創造者とされるようになった。このようであれば、大弁才天女は実にインド文化の母と云うべきで、そして牧牛歓喜女の話などは当時の生活を映し出しただけのものに過ぎなかろう。このサラバスチーさえ仏教に帰依して正法の擁護を誓う。仏陀の威光大いに増すと云うべきである。憍陳如は或いはサラスワタ族の者であろうか、義浄の訳に一々法師授記憍陳如バラモン(一々を法師は憍陳如バラモンより授記する)とあるのを思うべきである。インドの宗教を考えようとするには、なお深くサラスバチーを研究しなくては出来ないことである。

注解
・妄語:仏教の十悪の一つ。うそをつくこと。
・方便の説:目的のために利用する仮の手段。
・不空羂索観音:仏教における観世音菩薩の一つ。
・不動明王:仏教の明王の一つ。大日如来の化身とも言われ、五大明王の中心となる明王でもある。
・権現の思想:日本の神の神号の一つ。日本の神々を仏教の仏や菩薩が仮の姿で現れたものとする本地垂迹思想による神号。権とは仮という意味で、権現とは仏が仮に神の形を取って現れたことを示すとする思想。
・観世音菩薩:仏教の菩薩の一つ。観世音菩薩・観自在菩薩・救世菩薩・など多数の別名がある。
・普賢菩薩:仏教の菩薩の一つ。
・水仕女のお竹:水仕女とは台所で水仕事をする下女のこと。そのお竹が大日如来の化身ではないかと云う講談話(お竹如来)
・バラモン種族:アーリア人は現地住民を征服していくと、清浄と不浄という基準で社会集団を差別化し、自らの宗教的な権威を維持するため次第に宗教儀式を複雑化させ、ヴェーダを暗唱して複雑な儀式を司る司祭階級(バラモン)を最上位とするカースト制度を築き上げた。
・アリアン種族:アーリア人。
・韋陀:ヴェーダ。 古代インドのバラモン教の聖典。
・授記:仏が弟子に成仏の認可を授けること。


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