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幸田露伴の随筆「蝸牛庵聯話・檄②」

 陳琳が曹操に帰属してからは、陳留の阮瑀と共にその幕中の書記となり、軍国の檄書の多くが二人の手から出る。曹操の「孫権に与えるの書」は阮瑀の作るところであるが、陳琳の険しい気性の文とは趣を異にし、深い思いを穏やかに易しく、情理を尽くして人を我が欲するところに従わせようとする。文は今に伝わって、これまた後人の称えるところとなる。漢末から三国の時代は、武人に英邁な者の世に出ること多く、文士もまた俊逸な者が代に耀くこと少なくなかった。陳琳は曹操に帰属すると荀彧(じゅんいく)の名で、「呉の将校の部曲に檄する」文を作る。文は精悍、語は爽快、これまた上乗の檄文である。曹操は以前から頭痛に悩んでいたが、この日また病を発し、床に臥しながら陳琳の檄文を読んだが、気分スッキリ立ち上がって、「これが我の病を癒した」と云う。これから後は痛快爽利な文章が人の気を振起して引き締めるものを指して、「頭風を癒す」という評語が使われるようになった。壮快で佳い文章は正に頭風を癒すであろう。それがモグモグして語に成らない、蚊の鳴くような、蠅の声のような、卑屈で細々したものなどでは、却ってズキズキした頭痛を人にもたらす。陳琳は多くを言うには足りない一文士であるが、しかしながら、後の文士には陳琳に恥じるような者もまた多いのである。
 陳琳には二ツの檄の他に「武軍賦」があり、「抱朴子」において評価されているが、今は切れ切れに遺るだけで、深く論じることは出来ない。詩もまた遺るものが少なく論じるに足るものはない。袁紹のための「漢帝に上(たてまつ)るの書」や、袁紹のための「公孫瓚に与えるの書」に、その文体の特徴を覗うとよい。「陳記室集」はわずか数十紙にすぎない、アア、これもまた枯草が秋野に立つようなものである。しかるに世は檄を論じて、陳琳を指して檄の祖とするようになる、これまた一時の廻り合わせである。
 檄は実に戦国の時代に起こる。張儀の檄楚の文は激と云うには足りないが、早く漢においては司馬相如が作る「喩巴蜀檄」がある。また漢末においては隗囂の「郡国に告ぐる」檄がある。前者は天子の命に服さない巴蜀の民への諭告であり、後者は王莽を責めるのである。隗囂の文は王莽の天に逆らい、地に逆らい、人に逆らうことの三大罪逆を論じる。これは殆んど陳琳の「曹操を誹る文」の先蹤である。陳琳の後には錘会の「蜀に檄するの文」がある。これは大勢を説いて蜀を魏に屈服させようとするのである。文は総て今に遺る。これより後は変乱の世となって檄は自然と多く出るようになる。露布もまた檄のようなものである。檄も露布も今の宣伝である。袁紹や曹操の輩は千数百年前に居たとは云えども宣伝を重く見ないような迂闊な人ではないのである。
 檄を語って忘れてならないのは唐の駱賓王である。駱賓王は唐初期における詩の四傑の一人である。則天武后が唐王朝を簒奪して武周王朝を建てると、徐敬業が起って反乱を起こす。駱賓王は徐敬業のために檄を天下に広めて則天武后の罪を告げる。則天武后はむろん妖傑である、その檄を読んでも只せせら笑うだけで、深く気にもしなかったが、「一杯の土いまだ乾かず、六尺の孤いずくにか在る(高宗の墓土は未だ乾かないのに、高宗の孤児は何処に居られることか)。」という個所までくると、一矢は深く心窩(しんか・みぞおち)に中(あた)り驚愕動揺して、「この文を作ったのは誰か」と問う。「駱賓王です」という者がいた。武后は云う、「宰相はなぜこの人を失うようになったのか」と。思うに武后はこのような人を味方にできなかったことを、深く残念に思ったのであろう。徐敬業は敗れて死に、駱賓王は亡命する。歴史は駱賓王を伝えてここに絶え、これより後は駱賓王が世に現われることはなかった。不幸な詩人は杳として消息を絶ったが、髪を剃り僧侶となり、蹌踉として、なおも幽かに詩に生きたと云う悲しい話を、後の雑書は伝えている。駱賓王のことは別に語ろう、今ここで詳しく述べることは難しい。
 我が国の檄文は以仁王の檄が最も人に知られている。もちろん我が国のことであるから檄と明記されてはいない。令旨として源仲綱が之を奉じたのであるが、その実体は全くこれ檄である。その文は誰の手に成ったものか明らかにされていないが、平清盛並びに一族の反逆の輩を討つ理由を示して、当時の文章の力の極まるものである。思うに僧侶の輩の手に成ったものか。しかし、初頭で以仁王を最勝王と称したことは喜べない、末文で兼ねて御即位の後などとあるのも穏やかでない。最勝王の称号は金光明最勝王経の最勝王を用いたものか、或いは同経を奉じる最勝講会などを以仁王が司られたことから称したものか、或いは読んで字のようであった意味で称したものか知らないが、その母が貴くなかったために親王にさえなれなかった以仁王を、最勝王と記したことは、尊崇の意(おもい)の余りとはいえ恭譲の念に乏しく、かつ以仁王の御即位を予期したような筆意もまた謹慎の情に欠けている。しかしながら大体において清盛等の皇道に逆らい仏法を破滅し暴虐の甚だしいことを責めて、之を討つべしと言ったのは甚だ好い。この文が出た後、以仁王や頼政・仲綱等は志を達成できなかったとはいえ、行家が令旨を諸国に伝達すると、諸方の源家は大いに起って平家は遂に倒れる。檄文の働きもまた大きいと云える。
 現今の宣伝というものは即ち古(いにしえ)の檄である。報道というものは即ち古の露布である。力ある檄と露布を見ることの何と少ないことか。
 
注解
・阮瑀:中国・三国時代の文章家。兗州陳留郡尉氏県の人。字は元瑜。
・荀彧:中国・後漢末の政治家。字は文若。曹操の下でその覇業を補佐した。
・「武軍賦」が「抱朴子」で評価:戦争を歌った詩に詩経の「出車」「上林賦」「六月」があるが、魏の陳琳の「武軍賦」の勇壮さに及ばない。と葛洪は「抱朴子(鉤世篇)」。で論じている。
・抱朴子:中国・晋の葛洪の著書。
・司馬相如:中国・前漢の文章家。字は長卿。賦の名人として知られる。
・隗囂:中国・後漢初期の武将・政治家。字は季孟。
・錘会:中国三国時代の魏の武将・政治家・学者。字は士季。
・駱賓王:中国・唐代初期の詩人。
・則天武后:武則天。中国史上唯一の女帝。唐の高宗の皇后であったが、高宗が崩御すると唐に代わって武周朝を建てる。則天は諡号に由来した通称。
・以仁王:平安時代末期の皇族。後白河天皇の第三皇子。「以仁王の令旨」を出して源氏に平氏打倒の挙兵を促した事で知られる。
・源仲綱:平安時代末期の武将・歌人。源頼政の嫡男。
・平清盛:平安時代末期の武将、公卿、貴族。平家の棟梁。


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