幸田露伴の史伝「活死人王害風③」
恍惚として未だ道を得ず、鬱勃の思いに堪えかねた害風は、ある日甘河鎮に行脚し、或る居酒屋に入る。甘河鎮は西安の西南に当り、鄠(こ)から離れること遠くない甘河の傍(ほとり)に在って、終南の山が迫る。終南山中と云えばそうとも云える。鎮の居酒屋で、大皿の肉と小皿の菜で数杯の酒を飲んで酔いがまわった時に、突然二人の白い毛衣を着た者がやって来るのを見る。重陽が眼を上げてこれを見ると、驚くことに二人は容貌も風采も全く同じで異なるところが無い、余りにも似過ぎている。身の外に身が在って、どちらが真の身か分からない。影の辺りに影が添う、どちらが実の影か区別がつかない。飲めば飲み、笑えば笑い、語れば語り、食らえば食らう、すべてこれ二人して一人、一人して二人である。重陽はこれを見て愕然として驚き、凝然として思い、心中密かにこれは普通の人ではなく仙人に違いないと悟る。そこで二人の帰るのに付いて行き、人里を離れた所に着くと慎んで拝礼し、礼を正して教えを授かることを願う。二人はゆったりした態度で、この人は見所があると云う。重陽は悦んで二人と語る、仰ぎ見れば二道者はこれ真(まこと)に煙や霞のような態度、大空のような精神、その言葉は塵をすすぎ、垢をすすぎ、膏(あぶら)をのぞき、盲(もう)をえぐり、酔っているようでいて醒め、黙しているようでいて鳴らす。遂に口訣(くけつ・口伝)を授けて修養の方法を伝える。樗櫟(ちょれき)道人の「金蓮正宗記」は云う、「王害風が名を嚞、字を知明、号を重陽子としたのは、この時の二道人に命じられたことによる」と。言が終わると道人は東方を指して云う、「お前はこれが見えないか」と。重陽が首を回して見渡すと、空中に七朶(しちだ)の金蓮の実を結んでいるのが見える。道人は云う、「何が見える」と。「七朶の金蓮が実を結んでいるのが見えます」と答えると、道人は笑って、「どうしてどうしてそれだけではなかろう、正に萬朶の玉蓮が有って芳(かんば)しかろう」と云って、云い終わると忽ち消え去ってしまった。
これ以後、重陽はいよいよ狂い、世間の判断や人事の価値を認めず、すべて自分の思う所に従って黙々と行動して、自由気ままに、わき目もふらず、破れ衣に短い簔を着て、飄々と歩き廻り、大鼾(おおいびき)をかいて野宿し、次第に本当の狂漢となる。当時の重陽が作った「遇師」と題した詩一絶が「全真集」に載っている。云う、
四句八上 遭逢を得たり、
口訣 伝え来たって 便(すなわ)ち功有り。
一粒の丹砂 色愈々好く、
玉華山上 殷紅(いんこう)を現ず。
重陽が二道人に遇ったという事は、つまりこれは何を語るものか。李道謙は重陽が遇った者は呂洞賓だと云う。呂洞賓は嘗て私がこれを論じた。呂洞賓は唐の人で、道を鐘離権(しょうりけん)に学んで仙人と成り、永く世間を行脚して人を救ったと世は伝える。宋の時に呂洞賓がしばしば現れたと云う話がある。明(みん)や清(しん)の世に於いても時に現れたと云われている。重陽の前に現われた者は果たして呂洞賓あろうか、あらずか。別に重陽と二道人の出合を見た者が居た訳では無い、果して誰が二道人の呂洞賓であるか否かが分かろう。また果して誰が二道人が重陽の前に現われた事の、事実か否かが分かろう。そもそも二道人が重陽の前に現われた事は、ただ単に重陽の主観中の事(思い込み)なのかも知れない。しかしまた、世には自ら仙人の道を伝えて、穏やかに世に隠れ住む隠士が居ないとも云えない。重陽が遇った者はこれ等の人ではないか、これもまた尋常の見解をもって論じるべきでないものがあるのである。重陽の「遇師」の詩を読むと、その伝受されたものは金丹の道のようである。金丹の道は漢の時代から伝わって今に至る、その道は幽渺として分かり難いが、歴代の真人や仙人はこれを修めてこれを証し、その後に生死を超越して玄妙の境地に入る。俗人はこの消息を理解できないで妄りに自分の思いで判断し、どうして世に煉丹の術などが有ろうかと云う。しかしながら、その道の初めが有って会得することを思い、符験が有って信ずることを思わなければ、学識有る高明な歴代の知識人が、敢えて世を捨て家を棄て妻子を遺して、何で炉や鉛や水銀などの煉丹の道具や材料に苦心することがあろう。金丹の道は予(か)ねてから私が別に論じたいとするもので、今急にこれを詳しく云うことは出来ないが、要するにこの道は密かに伝わり、亡びることなく千有余年、今なお考えるべきもの、調べるべきものが有るのである。重陽が遇った二道人が、呂洞賓であるか無いかに関係無く、又ただ単に重陽の主観中の事か否かに関係無く、思うに重陽は四十八歳の正隆四年六月十五日に、初めて感発悟得したのである。ただし重陽が毛衣を着た道人を呂道人と思ったことは隠せない。重陽の「全真集」中に、「王道人に贈る」と題した詩があり、云う、
囗来り 月往き 愈々身軽し、
囗是れ 雲車 穏にして又平(たいらか)なり。
囗目 怎(いか)でか知らん 雲水の貴きを、
囗仙 相聚(あいあつ)まり 気神栄ゆ。
囗牛の運用 人 鑒(かん)し難く、
囗虎の咆哮 我に声有り。
囗遠是非 心 道を楽しみ、
囗先勝地 清明を賞す。
これは蔵頭の格と云うものであって、七言の詩の毎句の頭の一字を囗で示して、人の推測に任せるものである。第五句と第六句は正にこれ丹道(煉丹術)の語であって、馬牛の運用も、竜虎の咆哮も、本(もと)はみな嘘や出鱈目(でたらめ)ではない。この篇は重陽が作ったもののようだが、或いは毛衣を着た道人が王重陽に贈ったものかとも思う。また「純陽真人の韻に和す」と題するものが一篇ある。純陽真人と云えば、これは呂洞賓だと分かる。韻に和すと云えば、呂洞賓が重陽に贈った詩のあったことが分かる。乃(すなわ)ち重陽が呂洞賓に遇ったことが分かる。詩に云う、
囗人 此(ここ)に到りて 清泉を弄す、
囗洗す 塵労を 物外の天。
囗是 人非 難きこと汨々(こつこつ)、
囗生 日没 往くこと千々。
囗年 修煉して 方(まさ)に旦(あした)に帰し、
囗日 応成 自ら恍然。
囗裏の白蓮(びゃくれん) 今已(すで)に見(あら)わる、
囗神 正(まさ)に得ん 大羅の仙。
火裏の白蓮もこれまた丹道の語である。今已に見わると云うその喜びを知るが善い。
この甘河鎮で呂洞賓に遇った時と前後して、重陽はその兄を喪(うしな)う。「全真集」中に「兄死作」の一絶句があり、云う、
人々 只(ただ)会す 家親を哭するを、
誰か肯(あえ)て 能く哀(かなし)まん 自己の身を。
若し 己が身を把(と)って 哀(かなし)み得て慟(な)かば、
無生(むしょう)の路上に 閑人と作(な)らん。
その当時の、道に進んで周囲を顧みない状況が想像できるではないか。「自詠」と題する行香子(こうこうし)の詞に、
箇(こ)の王三有り 風害狂顚。
の句があるので、思うに重陽は王家の第三子であろう。重陽の家庭での状態について、諸書は明記していないが、その「悟真の歌」を読んで概略を知るが善い。歌に云う、
余(よ)九歳に当って 方(まさ)に事を省す、
祖父年を享(う)くる 八十二。
二十三上 栄華の日、
伯父 享年 七十五。
三十三上 婪耽(らんたん)を覚ゆ、
慈父 享年 七十三。
古今 百歳 七旬少し、
此の逓減(ていげん)を見る 怎(いか)で当(まさ)に甘んずべきを。
三十六上 寐中(びょうちゅう)に寐(い)ぬ、
便(すなわ)ち要す 分つ他の兄の活計を。
豪気 天を衝き 意情の恣(ほしいまま)にす、
朝々 日々 長く沈酔す。
幼を圧し 人を欺き 歳時を度(わた)り、
兄を誣(し)い 嫂(あによめ)を罵り 天地を慢(あなど)る。
家業を修めず 身を修めず、
只任す 他の空しく富貴なるを望むに。
浮雲之財 手に随って過ぎ、
妻男の怨恨 天来に大なり。
産業 売得たる三分の銭、
二分は喫著(きっちゃく)し 一は酒課。
他毎(毎は輩と同じ)の衣飲全く知らず、
余 酒銭を還して 災禍を説く。
四十八上 尚を強を争う、
争奈(いかん)せん 渾身 察詳(さつしょう)を做(な)す。
忽爾(こつじ)一朝 便(すなわ)ち心破れ、
変じて風害となり 風狂に任す。
懼れず 人々の 長(とこし)えに恥笑するを、
一心 三光の照りを昧(くら)ますを恐る。
慮を静にし 思を澄まして 己の身を省み、
悟り来たって 便(すなわ)ち妻児を把(と)って掉(す)つ。
この歌によって知る、重陽は九歳にして祖父を失い、二十三にして伯父を失い、三十三にして父を失ったことを。また知る重陽は父の四十歳の時の子であることを。また知る三十六にして兄に資産を分けることを求め、資産を得た後は勝手気ままな生活し、酒を飲んで日を送り、不満があると兄や嫂(あによめ)を罵り、勢いに乗じては人を侮り他を圧し、勤勉に働いて家産を守ることをせず、いたずらに他を羨み、自己の財産を蕩尽し、妻子に恨まれ、ついに家を売り田を売り、又これを酒代に費やし、妻子の困窮を省みず、四十八歳になっても改めようとしなかったが、既にどうすることも出来ない状態になり、ついに忽然として道心を発して、まっしぐらに入道して妻子を棄てることになったことを知る。
このようであれば、これは凡愚の輩が改めることなく飲酒を続けた経歴であって、世にはこのような人が多く、地方各地この類の輩の無いことは無く、蘇東坡云うところの瘴死(しょうし・病死)の牛肉を食らって、村醪(そんろう・地酒)を鯨飲(げいいん)して気を吐く輩(やから)であり、友として語るには不足な輩である。重陽は自分を述べてこのように云う、思うに偽りの無い自白とも云える。であるにしても、歌の前半はこれ悉く自らを責める言葉であって、自分を護る言葉が無い。人の自らを責める言葉によってこの人はこれだけの人と決めつけるのは、鄧析(とうせき)の徒の苛論(一方的な極論)であることを免れない。重陽がこの歌を作ったのは年五十二の時、そのため歌中の後の句に云う、
五十二上 光陰急なり、
活きて七十に到るも 幾日か有らん。
と。五十二の時に、重陽は自ら墓の中に入り、一切を抜け出て、その心は矢のように只進んで、ひたすら道を得ようと欲する。自責の言が痛烈なのも不思議ではない。人はただその言を聞いて斟酌し、これによって生活の概況を推測するだけであって、これによって批判の議論をすべきでは無いのである。
重陽が遇った道人を呂洞賓とするのは、重陽の「了々歌」に、
漢の正陽を兮 的祖と為し、
唐の純陽を兮 師父と倣(な)す。
の句があるからである。正陽は即ち鍾離権であり、純陽(呂洞賓)に道を伝授した者である。伝えて云う、「今の終南山の凝陽洞伝道観は即ち正陽が東華帝君に会って道を伝授された処であり、また咸陽の周曲湾の正陽宮は即ち正陽の故宮である」と。咸陽と云い、終南山と云い、皆重陽の生地や居所に因縁がある。まして正陽の弟子の呂洞賓は昇天を願わずに、永く人界に在って道を伝えて人を済度しようとした真仙である。重陽が呂洞賓に遇ったのも、甚だ因縁深いと云うべきか。(④につづく)
注解
・口訣:口伝。口伝えの秘伝。
・樗櫟道人:蔵冊「金蓮正宗記」の編者の秦志安の筆名。
・呂洞賓:中国の代表的な仙人である八仙の一人。姓を呂と云い、名は嵓、字は洞賓、号は純陽子と云い、純陽真人、呂祖ともに呼ばれる。
・鐘離権:中国の代表的な仙人である八仙の一人。姓を鍾離と云い、名は権、字は寂道、号は雲房と云い、正陽真人とも呼ばれる。呂洞賓の師。初期の内丹経典である「霊宝畢法」の著者と伝わる。
・金丹の道:中国・古代の神仙術の一つ、不老不死の薬である金丹を錬製する方法、煉丹術とも云う。唐の時代には、外物を錬成して金丹を生成する外丹の術が盛んに行われたが、宋以降は、自己の内部に在る気を精錬して体内に金丹をつくる内丹の術が行われるようになった。ここで伝受された金丹の道は内丹の術か。
・馬牛の運用、竜虎の咆哮:共に煉丹の過程を表わす隠語。煉丹術は秘伝なので解り難いように隠語を用いて表されている。
・真人:道教の道(タオ)の具現者である上級の仙人。
・蘇東坡:蘇軾、字は子瞻、号は東坡居士、中国北宋の政治家で宋代随一の文豪。
・鄧析:中国・春秋時代末期の政治家で思想家。鄧析は民に訴訟の方法を教えた。
・鄧析の徒の苛論:鄧析の方法で民(鄧析の徒)が訴訟で用いた弁論(一方的な極論)。
・東華帝君:中国の神話上の仙人である東王父のこと。西王母が女仙を統率するのに対し、東王父は男仙を統率する。