見出し画像

幸田露伴の伝記「真西遊記・その六」

その六 

 大層朝早く玄奘のまだ起きる前に、賢者を尊ぶ心の深い高昌王は王妃以下を率いて玄奘法師を礼問し、法師が涼州と瓜州で危難を免れたこと、烽火台の下で矢を射られ命を失いそうになったこと、砂漠の中で死にそうになったことなどを一々聞かされて驚嘆し、「弟子(ていし)の思いますに、砂漠の中におかれてどのような艱難をされ玉われたことか察するにも傷ましいものを、何事もなくただ一人で来玉いしは、仏天の助けが法師にあったものと思われ真(まこと)に尊く、言葉もありません」と涙を流し感心して称えたが、美を尽くした食事をすすめて、食事を終えると後は宮殿の側に建てられた道場へ玄奘を案内し、そこを居所とし侍者をつけて丁重に世話をさせた。
 この高昌国に彖(たん)法師と云う者が居た。かつて長安に遊学した者で善く法相の教えに通じていたが、王はこれを玄奘に会わせたり、また国統(こくとう・僧統)の王法師と云う八十余りの老僧を玄奘と一緒に居させて、玄奘に「永く高昌国に住んで西方へ行くことの無いように」と、何かにつけて説得させた。しかし、西方へ行きたい心で一杯な玄奘の耳にどうして説得の言葉が入ろう、王の好意を断り兼ねて十日余りも留まっていたが、遂に暇乞いをして去ろうとすると、「既に老法師を通じて私の思いをお伝えしましたが法師の御心は如何でしょう、願わくはこの地に留まり玉え」と王は引き留めにかかった。これはまた困ったことに成ったどうしようと玄奘はしばらく思案したが、他に答える言葉もなかったので、「お引き留めくださる有難い御言葉ではございますが、ここまでやって来た決心に背くことはできません、なにとぞ許し玉え」と断ると、王は重ねて「私が先王と支那に遊んだ時は、隋の帝(みかど)に従って長安・洛陽の二京は云うに及ばず、燕・代・汾・晋までも遍歴して多くの名僧知識にお会いしましたが、何慕うところも無く終わりました。ところが先日法師の名を耳にして以来、敬慕の念(おもい)やみがたく、また幸いにこのような知遇を得て、心身は歓喜し瞬時も法師を思わないことが有りません。法師、願わくは留まって一生を弟子(ていし)の供養に終え玉え。この国の人のことごとくを法師の御弟子(みでし)と致しましょう、数千の僧徒のことごとくを法師の説法を聞く者と致しましょう、何卒この細(ささ)やかな心の誠を汲まれて西遊の念(おもい)を翻(ひるがえし)し玉え」と云う。
 玄奘はホトホト困った、「王の厚情は自分のような徳の薄い者の応え難いところでありますが、この旅はただ供養のためだけにするものでは無く、本国の法義が未だ揃わず経律もまた欠乏していて疑惑が解ず、本来従うべきところが解らずにいることを悲しみ、西方に未だ解らないところを尋ねて、広大無比な大乗の教えの甘露を、迦毘羅(カビラ)の城下に灌(そそ)がせるだけで無く東国にも伝えて、疑いを断つ広大無比な大乗の道理の言葉を招来したいと思うからであります。願わくは御意を収めて西遊の思いを果たさせ玉え」と云えば、王もまた、「弟子(ていし)は法師を仰ぎ慕いて是非とも供養し奉ろうと思います、たとえ葱山(そうざん)は転ばせても、この心は転びません。愚かなこの誠を信じて疑うことの無きように」と云う。押せば返し断れば猶も求めて応答が限りないので、玄奘は少し論を進めて、「王の情け深い御心は御言葉が無くとも充分心得て居ります、深い御恩恵には感謝の言葉もございません、ただ玄奘が西に来たのは全く法のためでありますので、法を未だ得ないで中途で留まることはできません、この道理によって謹んでお暇乞いを願うものです、王は人々の主であれば人民が仰ぎ頼み奉るだけでなく、教法もまた依り頼み奉るところであります。であれば、ただ人民を撫育し玉うだけでなく、教法もまた愛護され玉うべきあります。まして王が仏を尊み法を重んじられるのであれば、道理としても私の西遊求法の志を助け玉わるべきを、引き止め玉うとは御厚情が過ぎて却って悲しく存じ奉る」と、道理を尽して申し述べた。
 王は額に手を当てて、「弟子(ていし)も敢えて法師の西行を遮り止めようとするのではありませんが、我が国には好い導師が居ないため、法師に国師になっていただいて愚迷な民人を導かれて皆を善くしていただきたいのです。私は民を愛育し仏法を尊信する者なので、いよいよもって法師を引き止めることなく、道も危うい西方へ行かせ難い気持ちなのです。願わくは私の真心を憐れみ玉いて私の願いを叶え玉え」と、高貴の身分も構わずに真心から云う。賢者を尊ぶ一心で、一国の至尊の王である身を以て他国の一僧徒に今まで頭を下げていた王も、此処に至って顔の色を変えて袂(たもと)を払って二三歩退き、「法師よく聞き玉え、弟子(ていし)は徳も足りず才も鈍く法師を留めることができないとはいえ、仮初(かりそめ)にも高昌国の王として聊(いささ)か勢力の無い訳ではありません、弟子(ていし)が万一異心を抱けば法師はどうして我が国をでることができましょう、或いは法師を本国に送り還すか、或いはまた永らくこの地に留めるかは、皆私の一存にあります。法師よくよく思い玉え、私の言葉に就かれることが却って法師のためでもありましょう」と、恐ろしいことを云い出した。玄奘も今はやむ無く不撓不屈の精神を少しも包み隠さずに暴露して、「私が来たのも大法のため、行こうとするのも大法のためです。今ここで王のために止められても、この骨は留められてもこの精神は止められません」と慨然と歎息し、思いが胸に逼って咽び泣きしてものが云えない。
 王は玄奘のこの断乎として動かない意思を知って、強要するのは控えたが、敬慕の念(おもい)をいよいよ深めて、これより後は留めることは云わずに、唯ひたすらに礼を厚くして供養を増して、毎日の食事も王自らが盆を捧げて茶を勧めるに至っては、玄奘の心苦しさは何とも云いようがない。逃げ出そうにも門衛が居て城門は幾重にも厳重である。辞退しても許されないのでどうすることも出来ない。遂に王の供養を受けないと決意して自ら食を絶つ。王は自らが盆を捧げて食事を勧めるのに、玄奘が黙って座ったままで食事を摂らないのが不審で、さまざまに労り慰めるのだが、玄奘が眼(まなこ)も動かさず端座を続けるので仕方なく退いたが、尚も珍味を尽した膳を調えては勧めた。しかし玄奘は胸中で、「王の心が一転して我が西遊を許さないうちは決して王の供養は取らない、我が断食の日数が積もれば、生を求めず死を恐れない我が精神に感じてあるいは許されることがあるかもしれない、また王の思いが堅くて我が身が脆く倒れても仕方ないことと諦めよう、心に背いて生きるより死ぬ方がまだましだろう、王の思いが堅いか我が思いが勝つか、命を賭けて争おうと歯を噛みしめて座を正し、ここは一寸も動かない」と覚悟を決めた。
 その翌日も食事を摂らず、またその翌日も食することなく、三日というもの一滴の水も飲まなければ、眼はくぼみ小鼻は肉が落ちて息もかよわくなったのを、第四日目になっては王も流石に見るに堪えなくなって、稽首(けいしゅ・頭を地につけ拝礼)して、「法師よ私の罪を許し玉え、法師の西行を留めたのは私の過ちでありました、今はもう止めません、法師の御心に任せますので、願わくは私の供養を納め玉え」と云い出した。玄奘が尚も王の心を計りかねて、或いはこう云って食事を摂らせた後でまた引き止める積りではないかと疑い、「日を決めてその言葉が偽りで無いことを表わし玉え」と王に求めたところ、王は「では仏前で私の誠を示しましょう」と、玄奘と共に道場に入って仏を礼拝した後、母の張太妃の前で玄奘と義を結んで兄弟となって、「かくなる上は、法師が思いのままに西域に入って法を求める助けはしても拒むことなど決してしません、ただ願わくは還り玉う日にはこの高昌国に三年の間は留まって私の供養を受け玉え、法師が成道の大果を得玉うためならば、微力を尽くしてでも法師のために、釈迦佛に於ける波斯匿王(はしくにおう)のような保護者になりましょう。なので、今から猶一ト月ほど留まり玉いて、仁王般若経を講じて頂ければ誠に嬉しく思います。且つまたその間に旅中の御衣なども作り参らせますので、この願いを一重に許し玉え」と、あくまで親切丁重であるので、玄奘も辞退できなくて一々承諾した後に、少しばかり食を摂った。
 これより王は大きな帳(とばり)を張らせて、母君の張太妃を始め大臣達と共に毎日、玄奘が経を講じるのを聞いたが、講が始まる度に香炉を手に執って玄奘を一々出迎えた。日々このようにして講の満了の日を迎えたので、玄奘のために四人の沙弥を選んで給仕に充て、法衣三十着を贈り、西方の地は極めて寒いからと顔を覆い隠すものや手足を包み護るものを贈り、法師の二十年間ほどの生活を支える糧にと黄金百両銀銭三万絹五百疋を贈り、馬三十匹と介添え人二十五人を道中のためにと贈った上に、殿侍御史(近侍の史官)に「法師を送って葉護河汗(ヤブグハーン)の街まで送れ」と命じた。また二十四通の封書を作って、一封ごとに大綾(たいりょう)二疋を印(しるし)として添えて屈支国などの二十四ヶ国に法師のことを依頼し、西蕃諸国の盟主である葉護河汗には綾絹五百疋と果物二車と共に、「法師は私の弟でありますが、法を西方に求めようとして貴国を通るものであります。願わくは河汗におかれましては、私を憐れむように法師を憐れみ玉え」と書いた書面を添えた。以前には実に西行の障害であった高昌王が、翻意して好意極まるこの餞(はなむけ)をして呉れたことに玄奘は再び驚き悦んで、書を上(たてまつ)って恩を謝したが、「法師が既に私と兄弟に成ることを許された上は、我が国の者は皆法師と共にあります、感謝されるには及びません」と、王はキッパリと答えた。いよいよ玄奘の出立の日になると、王は大臣や百官等と共に都(みやこ)の人全員を集めて城の西に見送り、王妃や家臣らを還らせた後に、尚も王は僧等と馬に跨って数十里を送り、玄奘法師を抱いて慟哭した。涙の眼で見送り、また見返りしつつ、護法の賢王と求法の高僧の二人は別れ別れになった。(「その七」につづく)

注解
・迦毘羅の城下:カビラ城を中心とする地は釈迦族が住んで居た地で、釈迦はこの地で誕生した。
・釈迦佛に於ける波斯匿王のようになる:釈迦の援護をした波斯匿王のようになると云う意味。
・葉護河汗:西突厥の大王、河汗(ハーン・大王)を担う前が葉護(ヤブグ・大臣)だったので葉護河汗(ヤブグハーン)と呼ばれた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?