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幸田露伴の随筆「折々草34」

三十四 戦時の詩人

 海一ツ向うの国との戦争(日清戦争)が起こってから、我が国の人の心は奮い立って、小説などには眼もくれず、烈々とした火炎(ほのお)の上に塵埃(ちり)が留まるのを容(ゆる)さない状態になったのも当然である。このような時に浮かれた物語などを好んで読む者は、恐らく腸(はらわた)の腐った人と云われよう、その作者もまた心無い人と非難を受けよう。それも当然、これも当然である。ではあるが、戦(いくさ)が海の向うにだけにあると思うのは物忘れした過ちではないだろうか、もしくは思慮の浅い過ちではないだろうか。ソレ農夫の剣は鍬(くわ)であり犁(すき)である。工匠の砲は定規であり墨縄(すみなわ)である。学者の水雷は魚形ではなく球状の頭である。商家の戦艦は檣(ほばしら)の無い桁(けた)だけの算盤(そろばん)の他に有るハズが無い。夫々の職に身を置く者は「進め」のラッパの声を天から受けて、各自がその道に突貫奮闘してこそ真実(まこと)の国力もついて、寂光極楽の世界をも占領できるようになるだろう。彼の敵国(清国)の俚諺(ことわざ)にさえ、「将軍馬を下りず、各自前程(行く手)を走る」と云うではないか。まして将来ある我が国民が単に精神の一致を知るだけで、職分の独立と云うことを忘れ果ててよいものか。文学や美術は戦争とはヤヤ遠いものであるが、これに我が身をかける者は如何に文学の使者であっても、如何に美術の寵児であっても、自国の戦争を葦の葉音のように聞き流したり、陽炎(かげろう)が燃えているように見做(みな)したりするようでは、国民の一人として死に価するのは勿論だが、しかしながらまた、自分の職分の独立までも忘れてしまうのは、文学や美術に対してはいうまでもなく、その国民の一人としても望ましくないことである。詩人・小説家・画家・音楽家などは各々守るべき自分の目標があり行くべき道も決まっているので、たとえ戦争が起きたとしても何等畏れ迷うことはなかろう。
 しかし戦争の影響で文学や美術は、少時(しばし)の間は世の中から軽視されること必定なので、このため或いは迷いが生じ怖れを抱く人もあろうが、これは文学や美術にとっては二義的な世の中の運であり、詩人がこれを辛い悲しいと思ったとしても、これを歎いたり恨んだりするには当らない。文学や美術の本来の性質は、世の中の風潮や感情などで少しも増減消長するものでは無く、戦争の影響はただ詩人の世評を増減消長するだけで、詩人の精神に増減消長を及ぼすものでは無いからである。極端に云えば詩人などは何者にも奪えない精神上の報酬だけに甘んじて満足する幸せな者達なので、世の中の評判を全く失うような不幸に遭ったとしても、悠然とひとり孤峰に立って、笑って詩歌を高唄する覚悟がなくてはならない。それを何だ、自ら卑屈にも世評の増減消長に驚き騒ぎ、顚倒狼狽の醜態を露わすとは。例えば此処に一詩人が居て一篇の詩を書くとすると、その詩人がその詩を書く時に机に対(むか)って筆を執り思索する間において、詩による精神上の報酬、即ち自己の心中に生じる無限の快楽を感じるであろう。そしてその後にその詩を公(おおやけ)にすれば、その詩の質とその時の世情との間に起きる化学反応によって、初めてその詩の評判、即ち世間の冷遇または歓迎などの各種の結果が生まれよう。こうであれば精神上の報酬は何時の世であっても何処の国であっても、その詩人に異状が生じない限り得られるが、世評はその詩の質とその時の世情との化学反応なので、大詩人の好詩も悪評を被ることがあり、俗詩人の悪詩も好評を博すことがある。このような事情であれば好くも悪くも世評は詩人を評価出来ず、詩の評価も出来ないことが明らかである。同時に世評によって左右される詩人の心や詩の価値も推測することが出来る。世評などは云うに足りない。戦争が詩をどうできよう。詩人・小説家・画家・音楽家などは各々自分の携わる道を尽くして前進するだけである。そうなってこそ日本の兵士にも恥じない詩人・文人・美術家であると云える。
 平時であっても戦時であっても文学や美術に携わる者に、強いて仕なければならないような務めは無い。強いて仕て好い結果が得られることは万に一ツのほか此の道に於いてはあり得ないことである。なので文学者や美術家に対してこの戦争に関する作品を出せと強制する者があれば、これは非道理も甚だしくまた無知極まることである。とはいえ、国民の職分の独立と国民の精神の一致とは対立するものでは無く、又、さまたげ合うことの無いようにすべきであるから、望ましいのは文学者や美術家が明確な目的を懐いて、現時の戦争についての作品を、直ちに若しくは未来に於いて出そうとする真心があることである。これが国を護り愛を重んじ理を正す気高い高尚な精神と、俗事を脱して天賦の才を発揮しようという果てしなく奥深い職分とが一致する立脚地だからなのである。文学者や美術家がこうした製作でよく成功した暁には、その作品は国の権力にも劣らない権力を持ち、永久的に世に影響を与えるものなので、一詩人もしくは一画家が精神を込めて作った詩や画が未来永劫に光彩を放つとともに、現世に絶大な功績を立てることがある。例えば彼のラッパ兵を詠(よ)んだ詩が出たために、その詩によってラッパ兵の美名が千年に亘って万国に響いたとすれば、即ちその詩人は詩に永久の命を与えた者で、与えた詩は地位や褒章しか持たない国家権力に比較しても、どんなに優れているか知れないのである。また彼の兵の死骸に刃(やいば)を加えるような敵兵の不義を、風刺したり冷笑したり罵倒したりする詩が出たりすれば、その詩によって敵国の兵士の醜態を千年に遺(のこ)し、万国に流すことになれば、その詩人が与えた影響は国家が為すことの出来る効果よりも或いは大きいものがあろう。画もそうである、彫刻もそうである、その他の文学や美術も皆そうである。アア、このような作品が望ましい、望ましい。そうは云っても、麦は年を越えなければ熟さない、牛は九ケ月経たなければ分娩しないと聞く、趣(おもむき)の足りない生煮えの詩や、目的のあやしい詩人の流産などは望ましくない。例えばラッパ兵の節操の高さのお陰でその詩が伝わり、清国兵の残酷の結果によってその詩が記憶されるようなことがありはしないか、これはこれで悲しむべきことで、世評はどうあれ詩の本来から云えばその詩人は失敗して恥をかいたのである。画もそうである、彫刻もそうである、その他の文学や美術も皆そうである。そうであれば、我が日本兵には関係のないその道の専門家に成れ。
 要するに文学や美術にたずさわる者は、平時に在っても戦時に在っても最も自由を与えられ、また最も自由を有する者なので、特に平時に在っては世評を懸念しない覚悟を持って固く純粋な目的を懐き、戦時に在ってはよく国民精神の一致するところを知ると同時に、職分の独立を考え、永久の命を与えることを忘れず、あくまで自重して誠心誠意、その道にあたるだけである。
 今や私は自身に異変が生じ、詩の国から引退しなくてはならないのではと苦悶している者であるが、二三の人に戦争についての意見を求められたので、敢えてこのように思うところを述べるのである。

注解、
・彼のラッパ兵:木口小平(きぐちこへい)。

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