幸田露伴の小説「プラクリチ③」
釈迦がプラクリチに「そなたは阿難を愛すると云うが、阿難のどこがそれほど好ましいのか」と問うと、「ハイ、もう目元も口元も、鼻つきも声つきも歩きつきも、何から何まで愛しいと思わないところは御座りません」と答える。「サテ、その目には涙・目くそ、口にはよだれ・つば、耳には耳あか、体内には血や雑物や不浄やらが満ちていて、愛すようなものは何一ツ無いではないか」と教え諭して女の愚痴を抑え、終(つい)には妄念を捨てさせて正道(しょうどう)に戻したと云うのが、摩鄧女経や摩鄧女解形中六事経であるが、そんな弁護士が使うような詭弁は実に感心できない。それではただ女がやり込められたというだけになってしまう。恋愛の取るに足りないものであるということをそんな詭弁で解悟(かいご・合点)できるとは思えない。それよりは、恋愛に苦しんだ結果、心境が純粋柔軟になったところへ仏法四真諦(ぶっぽうししんたい・仏法の四ツの真理)の教えを聞いたことで、例えば新品の白布が容易に染料に染まり易いように、仏法の教えを容易に受け入れることができて、迷いから悟りへの第一歩を踏み出して恋愛を解消するに至ったとする摩鄧迦経(まとうがきょう)の方が、どれほど優れているか分からない。それにしてもプラクリチの恋愛はその勇猛な破壊の力を逞しくしたことで、恋愛そのものさえも破壊することになったもので、憐れと云えば実に憐れであるが、世には無垢な人や善良な人が恋愛に堕ちた場合にコウなる例が実に少なく無い。
但しこれだけで済んで終(しま)えば、それは大した事でもない。身分の低い女が身分の高い者へ恋して大騒ぎをする話は華厳経の中にもあって、ほほえましい一幕となって恋愛が成立しているが、摩鄧迦の方は解消に終わるので差がある。華厳の方は空想的、摩鄧迦の方は現実的の匂いがするだけに、こちらの方が憐れは深い。のみならず、プラクリチの投げた礫(つぶて)は、恋愛を解消しただけのことに止まらず、猶も大きな破壊力の継続となった。その事はプラクリチの話よりも更に人の心を動かす。語りたいのはこれまでの事では無く、このかよわい女子によって偉大な釈迦までが動き出す事になった後の事である。
プラクリチは釈迦の教えによって恋愛を解消して尼になって済んだが、プラクリチが尼に成ったことの第一の責任者はもちろん釈迦で、その種まきを阿難がしたのである。元来比丘尼と云うものは仏教には無かったもので、不思議なことにプラクリチが成ったこの比丘尼というものは同じ阿難によって成り立ったものであった。釈迦が幼い頃その生母の摩耶(まや)を失ったその後を、手塩にかけて養育した叔母のマハープラジャーバチは、釈迦が立宗すると熱心にこれを信仰して、ついに自分の身辺の者と共に仏徒になろうとした。しかし婦女の身で仏徒である者は当時全く無かったのである。何故かと云えば仏教は婦女を罪深い者として当初は厳しく排斥したもので、後の釈迦の晩年の法華会上で龍女成仏が示される頃になってさえ、十大弟子中の知恵第一の舎利仏(しゃりほつ・シャーリブットラ)すら女身成仏を疑ったくらいで、法華経が成った後に初めて男女の相の転換、即ち男女同等が認められたのである。それなので、明師(めいし・優れた師)に出合ったらお互いに誘い合ってその師に帰依しようと夫婦間で約束していた大迦葉も、釈迦に帰依した後は、妻を仏道に入れたいと思いながらも、そうすることが出来ないで日々を送っていたのである。ところが釈迦の叔母のマハープラジャーバチがその熱望から、親戚の阿難を通じて仏門に入ろうとした。最初は釈迦も許さなかったが、死期の近い老年の当人からの大熱望と阿難の必死の懇願によって、もとより平等を宗旨とする以上は婦女のみを埒外(らちがい)に置く理由もなく、ついに比丘尼と云うものが許されることに成った。それでも仏法は比丘尼の成立を悦ばない傾向が甚だ根強く、特にその制度の成立によって自分の旧妻を仏門に入らせる便宜を得ていながら、大迦葉などは阿難が釈迦に願って比丘尼を置かせたことを「仏法の寿命を短くした」と云って、釈迦の生滅後に責め立てたくらいである。大迦葉は厳冷で強い、阿難は柔和でやさしい。その阿難が一身上のことからプラクリチを、釈迦に願って比丘尼に成らせたのである。貴賤も平等、男女も平等、何も不思議もないことではあるが因縁は不思議でないことも無い。ところで、最賤の旃陀羅種の女が貴い刹帝利種の女であるマハープラジャーバチと席を同じくする比丘尼になったのである。旃陀羅が市中に入る時は鈴を鳴らしたり割り竹をガチャつかせて、普通の人が気づくようにして、お互いに行き当たることがないようにする習慣になっている。それほど嫌われている旃陀羅のプラクリチも、比丘尼に成った以上はマハープラジャーバチと同じ舎(いえ)に寝起きし、同じ衣を着、同じ食をとり、同じ仲間となって問答談話をするのである。いかに仏門に入ったといっても嘗(かつ)ては王妃であったマハープラジャーバチにとっては忌まわしいことでないことも無い。阿難に対して旃陀羅の女を比丘尼にすることを釈迦が許したのかと再三訊ねたという云い伝えは、マハープラジャーバチの心中の消息を物語っている。しかし厭でも拒否はできない。しかも比丘尼を成立させた阿難に関係することである。マハープラジャーバチと阿難とプラクリチの三人三様の心持ち、平等の甘さ苦さを一瞬に味わっているところは、「酢吸(すすい)の三聖の図」とはまた異なった顔つきをしていたに違いない。
それは螺鈿(らでん)の手箱の中に油虫に入られたのを見るようなものであるから、まだしも可(よ)いことにして、驚いたのは城中の婆羅門や長者達で、釈迦が旃陀羅の女を許して出家させたと聞くと、多量の汚水を真っ向から注がれた気がした。「これは堪らない、何ということだ。そんなものに出て来られて、高貴の家々でも敬い慕って供養する道を修める人として、我等も席を下りて礼拝(らいはい)しなくてはならないとは、何たる事だ。」と、嗷々(ごうごう)と憤怒嫌悪の声があがった。ナルホド、つまらない差別は悪い、私事である。平等は実にうるわしくて好いことだろう。しかし人間はどこまで行っても自貴自尊の念(おもい)を無くすことが出来ない。自尊の念が人を支えているのであって、それによって不断に向上の道を辿らせているのである。優位の満足を欠いては人生は精彩無く、活気無く、味も匂いも無い素気の無いものになってしまう。人間世界の優劣が具体化されて永い歳月の間に階級と云うものが自然に成り立ったのである。旃陀羅を卑しいものとしているから農民の地位はそれに優っているとされ、保持されているのである。毘舎(びしゃ)より優ったものとして刹帝利や婆羅門はその矜持や道徳を敢えて保っているのである。今まで優位者であった者が突然旃陀羅を頂礼(ちょうらい・礼拝)しなくてはならない場に立たされては、味噌も何やらも区別なく一緒にされて仕舞うのである。社会はコレでは無茶苦茶に破壊されて仕舞うのである。仏法も宜しいがコレは堪らない、コレは堪らない、堪らない、という声々が城中に沸騰した。この嗷々(ごうごう)とした声が波斯匿王(はしのくおう)の耳を打った。もちろん王の近親者達も旃陀羅を贔屓(ひいき)するハズがない。波斯匿王はこれを聞いて大いに驚いた。
ところがここにまた洒落た脚本の筋書きが既に立てられていた。ソモソモ波斯匿王が仏教の一大支持者になったのは誰あろう阿難の手引きがあったからである。そのため阿難は今でも特に波斯匿王の帰依崇敬を受けていて、その妃(きさき)である末利夫人の阿闍梨になっているのである。であるから、旃陀羅種以外の種姓からの嗷々たる嫌悪を声を聞いて、また自分自身も忌まわしく感じたであろうこの事が、阿難の身辺から持ちあがったものだと知って、背中のドコやらを何か知らない虫に歩かれているようなヘンに奇妙な落ち着かない心持がしたことだろう。またその上に末利夫人にも妙なつながりが付いている。と云うのは、この末利夫人と云う人は非常に怜悧な人であったが出身は身分の高い人では無く、元は耶若達(やにゃだつ・ヤジュニャーダッタ?)という婆羅門の家に仕えていた婢(ひ・召使)であって、その末利園を守らされていたのだが、常に乾飯(ほしい)を別に貯えていて、末利園に入った釈迦(一説では須菩提)に対して之を奉(たてまつ)ったとされている。このように心掛けのよい女であったので、ある時の波斯匿王の遊猟の折に、暑熱の中を鹿を追って奔走に疲れて末利園に入った波斯匿王を、賢い婢は波斯匿王の貴人であることを知って、座を与えたり水を与えたりいろいろ親切に介抱してやった。王はその親切で賢いのと且つまた若く美しいことに感じ、名を訊いて耶若達の婢であることを知ったが、身分の違いも意としないで耶若達に千金を与えて、末利を連れて帰りコレを第一夫人とした。律部の伝はこのようであるが、経部で勝鬘(しょうまん)夫人と云われているのがこの人である。経部の伝では毛鬘(けまん・かつら)を作っていた女であるが、何れにしても怜悧と美麗と殊勝な性格を見出されて王妃になった賢女で、末利園の中で得られたので末利夫人と云われたが、初めはカビラと云っていた人である。これは当時の人は皆知っていたことであろう。少しの違いはあるが末利夫人出世の話は、プラクリチと阿難の出合に似通っている。波斯匿王はこういう人を夫人にして平気であった人であるから、まんざら四姓の階級に拘るような世俗一般の平凡な考えを持っている人では無く、末利夫人もまた刹帝利種でも無ければ何でも無いところから高貴な地位に上がった人なので、これも階級差別に拘る人では無いのであるが、この王と妃であっても旃陀羅が比丘尼になれば僧宝である。仏教者が尊崇する三宝(仏・法・僧)の一ツである。自分等より優位の地位に立つのである、頭の上に乗られるのである、自分等は引き下げられるのである、自分等にとっても忌々しいし、且つ社会の憤懣も沸き立っている。そこでついに波斯匿王は黙って居られなくなって厳かに行列を立て眷属や家来を引連れて祇園精舎に向かった。賢女の末利夫人がこれを引き止めなかったところを見ると、夫人も旃陀羅を比丘尼にするとはアンマリだくらいに思っていたかも知れない。だからと云って夫人もまた自分の過去を顧みれば差別を無視して今の自分があるのだから、これもまた身体の中のドコかの筋が妙な方向に引き攣(つ)っているような気がしないでも無いだろう。釈迦、マハープラジャーバチ、波斯匿王、末利夫人、阿難、プラクリチ、プラクリチの親、大迦葉、須菩提、比丘、比丘尼、城中の各姓、旃陀羅の人々、皆がプラクリチの抛(ほう)った恋愛の一礫(ひとつぶて)から拡がった破壊の波紋の動きの中に平等と差別とが凹凸と揺らめいている様は、壮烈と云うのでも無く優雅とでもいうのでも無いが、何と味の深い、光の複雑な、言いようも無い一場の妙光景であったであろう。
釈迦は波斯匿王の心中も、諸比丘の心中も、他の参会者である長者や婆羅門の心中も悟り知って、ここに於いて階級差別の陋見(ろうけん)を破って平等無遮(びょうどうむしゃ・無差別平等)の大義を諭(さと)し広めようと大いに説きはじめた。「汝等、プラクリチ比丘尼の昔の因縁を聞きたいか」と訊ねて、諸比丘が、「ハイ」と答えたのを発端にして、過去阿僧祇劫(あそうぎごう・永い永い遠い遠い昔昔の過去の世)にガンジス河の側(かたわ)に阿提目多(あだいもくた)と云う園(その)があって、園王を帝勝伽(ていしょうが)と云い旃陀羅摩登伽種であった、と云うのを始めにして、その王がその子の獅子耳(ししじ)・或いは虎耳(こじ)と云うシャブーカーナのために婆羅門(ばらもん)蓮華実(れんげじつ)の娘のプラクリチを娶(めと)ろうとした事で、婆羅門との間に種姓のことで応答を繰り返すのあるが、つまりは帝勝伽の言葉は釈迦の意(おもい)であり、過去の世の獅子耳は今の阿難その人であり、過去の世のプラクリチは今のプラクリチなのである。その帝勝伽の言葉の中で、最貴の婆羅門種も最賤の旃陀羅種も何等異なるところのない人間であることを痛説されていて快理を極めている。諸姓が起こった事情と経過を説く條(くだり)では、劫初(ごうしょ・世界の始まり)には全ての衆生は全く自由であって飲食衣服や自然の恵みも備わっており手助けは必要としなかったのである。その後自然の恵みも薄れて来て、そこで衆生は種を植え、境界を分別し、自他の思いが生じ、或いは自身の田稼(でんか・財)の多いことを自慢して他の人を軽蔑し、自分で自分を豪富と称した者を衆人が名付けて刹帝利種としたのであり、また衆生の中にあって世念(せねん・俗世に執着する心)に疎く、山林に入って学び、行乞して命をつなぎ、身を清くして祠祀(しし・寺社)を奉じた者を婆羅門と呼んだのであり、耕種墾殖や田猟漁捕(作物を作ったり獣や魚を獲ったり)して生を治めた(生活した)者を名付けて毘舎として、無慈悲(殺生)の行いをして世を送る者を首陀羅としたのであり、路に於いて遊行しその車を破壊し、因って更に修治した者を摩鄧迦と呼んだのである。このように分かれ別れて百千種となったが、本当は何の異なるところも無いのであると説いている。異訳の二経は実は一ツの本から出た異本だろうが何れも訳文は拙悪である。ことに虎耳経などは意味の通じることを主眼として、原本を正しく伝えることを軽んじているものであり、二者共に支離滅裂で誤謬の窺い知れるところさえある。
楞厳経では、摩鄧迦女が娑毘迦羅(しゃびから)の先梵天呪を用いて阿難を惑わせたとあるが、摩鄧迦経の中では蓮花実が帝勝伽に尋ねて、「貴方は楽に婆毘多羅(ばびたら)の神呪を読めますか」訊いたところ帝勝伽が答えて、「かつて読みました。この呪のソモソモを云うと、過去久遠劫(かこくおんごう・遥かに遠い遠い昔も昔)の私が仙人となって婆藪(ばそう)と呼ばれていた時のこと、徳叉龍王(とくしゃりゅうおう)の娘の黄頭(こうとう)と云うものを見て愛着心を起こして神通力を失いましたが、その時に深く自らを譴責してこの呪を説きました」と云っている。婆毘多羅は娑毘多羅の字の誤りで婆毘多羅・娑毘迦羅は音転(おんてん)であろう。娑毘迦羅はまた劫比羅という。黄頭は即ち伽毘羅であるから、これらを総合して推察すると、楞厳の娑毘迦羅の先梵天の呪というものは、ここで云う婆毘多羅神呪に当たるが、楞厳で人を惑わす呪とされているのは愛着の過(とが・過失)を悔いた悔責の呪であって、お互いに反対の呪になっている。尚この経のその條(くだり)の末尾に、有形必有欲(うぎょうひつうよく・形有れば必ず欲有り)、有欲必有害(うよくひつうがい・欲有れば必ず害有り)、若能離比欲(にゃくのうりしよく・若し能くこの欲を離れれば)、定得梵天処(じょうとくぼんてんしょ・梵天の処に定を得る)、コレ即ち名付けて大梵天王婆毘羅呪となすとある。呪では無い偈陀(げだ)であるが、意味は愛欲悔責の前文に対応している。楞厳経はおもしろいところもあるが、この辺を考えると何だか手品の使い損ねを見るようで可笑しい。イヤこれは話が横道に逸れた。
楞厳経では釈迦の過去世の話は猶も続いて、星宿歳時の論が長々とあるが、これは一面に摩鄧迦種の者がソウいう知識の持ち主であったのでも無ければ、何とも無意味なことでヘンである。𣧑呪者(くじゅしゃ・悪い呪者)と云われた者であるから摩鄧迦種は或いは占察療病のことなどにも関係したものか、今は何とも考えられない。サテ釈迦の帝勝伽の話の結果は、蓮花実婆羅門の婆羅門種が貴く摩鄧迦種が卑しいと云う間違った考えを帝勝伽が粉砕折伏(ふんさいしゃくぶく)して、我が子の獅子耳のためにプラクリチを得ると云うことで終って、その時の摩鄧迦王の帝勝伽は我であり、蓮花実は舎利仏であり、獅子耳は阿難であり、その時のプラクリチは今のプラクリチである、彼等二人は生まれ変わり生まれ変わりして、五百世を夫婦となったのであり、その余気が今において一場のドラマを展開したが、既に解脱の法門に入った。これからは菩薩の伴侶となって兄のように妹のようにして共に正覚を遂げるべきであるとして、説法は終りになったのである。して見れば阿難は五百世の間破壊を続けて、最後に破壊する物が何も無くなった真空に到達したのであって、まことに洒落た有難いことになったものである。
波斯匿王等は昔話を聞いていろいろと諭しを受けた末に、最後は天文暦日の話を拝聴させられた挙句、本尊の釈迦牟尼如来に、「私は旃陀羅であった、旃陀羅が今こうして仏陀になっているのである」と出られたので、恐れ入って仕舞うほか無かったであろう。
マズこれで異種異階級間の恋愛騒動の阿難とプラクリチの一件は解決したのであるが、どうしてどうしてこれくらいで済むものでは無い。波斯匿王と末利夫人との間に出来た瑠璃太子(ジェタ)は、卑女の出であると釈氏一族から卑しめられたのに怒って、ついに釈氏一族に対して大虐殺を仕出かして流石の釈迦を清盛同様に盥(たらい)の冷水も忽ち熱湯になるほどの大苦悩に突き落とすのであるが、それは今は記(しる)さない。記したいことでも無い。
(昭和七年七月)
注解
・仏法四真諦:仏教が説く四種の基本的な真理(苦諦・集諦・滅諦・道諦)のこと
・龍女成仏:法華経に載る娑竭(しゃか)羅(ら)竜王の八歳の娘が竜身・年少・女性という悪条件にもかかわらず一瞬にして男子に変成して成仏を遂げた説話。女人成仏の根拠とされている。
・舎利弗:釈迦に十大弟子の筆頭に挙げられ智慧第一と称される。
・酢吸三聖の図:世に酢吸の三聖の図というものがあって老子・孔子・釈迦が画かれているが、これは趙子昂に東坡懿(とうばい)跡(せき)の図と云うものがあって、それは蘇東坡が黄山谷と共に仏印を訪れた時に、仏印が桃花醋を得た甚美であると云い共に嘗めて眉を顰めたのを時の人が称して三酸とした。であれば東坡・山谷・仏印を誤って老子・孔子・釈迦としたのであろう。(太田南畝『南畝莠言』)。
・律部:大正新脩大蔵経の第十一番目の部で、律や関連した仏教経典をまとめた部。
・経部:大正新脩大蔵経の第九番目の部で、先行の八部には分類されない残りの顕教仏典をまとめた部。薬師経・弥勒経・維摩経・金光明経・楞伽経・解深密経等を含む。
・瑠璃太子:瑠璃王(波斯匿王の太子)。王位に即くや釈迦族を殲滅した。
・清盛同様:清盛が高熱を発して苦しんでいるので、比叡山から冷たい水を汲んできて石の水槽に入れ、そこに清盛を浸したところ、水はたちまち沸騰したと「平家物語」にあるが、釈迦の苦悩はそれと同じ程という意味。
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